第35話 天上セカイの天上に
――麗しき織姫はぶすくれモードである。
龍の鬣を鷲づかみにしたら、驚いた貴人に振り落とされそうになった。
(伊織、やることやったらとっとと帰っちゃうし。見られたら大目玉だろうけどさ……もっと、こう……甘くならないもんかな……やっと結ばれたのに、気が付けばいないし! 好きくらい言えってのよ)
ちょうど良いところにいた貴人を捕まえて、織姫は再びあの北の果てを目指していた。
「心の声響きすぎだって。何で俺が……おい、織姫、おまえ重くなった? 今日はいい匂いがするな。引っ張ってんじゃねぇよ。痛いだろ!」
翌朝。気付いたら散々本懐を遂げた伊織は夜の間に帰って行った様子で、休むに休めないからだを横たえて、何事もない素振りをするも一苦労。
ふとみたら、ベランダに貴人がいた。全く気の休まる暇もない。
(いつからいたんだろう……寝ていたみたいだけど)
まさかと思いつつ、紗那は訝しむように聞いた。
「ねえ、貴人あんたいつからベランダに」
「おい、蝦蟇から伝言。地上にあって、天界にねぇもの考えろって」
「分かった! 野心!」
ぱん、と手を叩いた紗那を乗せた龍の速度がガクンと落ちた。
「華だよ、華! 見回して見ろよ。地上にあった華がねえだろ! そのくせ、このセカイは地上とそっくりだろが! おまえ殷で何を見て来たんだ!」
――言われて見れば。
紗那は殷を思い出していた。
夕暮れがあり、美しく咲いていた花々。ユグドラシルの側で咲き誇っていた名もない花。妲己も頭に挿していたし、月の下で綺麗に輝いている花も見た。
「本来人間は、植物と共存すんだよ。でも、植物が意志を持てば、それは人間にとって脅威。その脅威を持つが華仙人。天上セカイは出戻り仙人の子孫ってわけ」
〝――地上に〝受精〟という奇跡を――天に戻――戻れなかった。天上セカイの結界は――死期を迎え、同化する――惨めな気持ち――に成り果てた――〟
(なんか、蝦蟇が言っていたな。長すぎて、覚えていられなかった)
「地上で悪さして、憎悪に突き抜けた仙人が戻って生んだ子供は母の怨念を引き継ぎ、天上セカイを根絶やしにしようとしたって。あらゆる華仙人は封じられ、そいつも自害して死んだ。ユグドラシルだけが残った。二度と、植物は生えない。代わりに、受精なしで育つ天上人の誕生となった。見ろよ」と背に乗っている紗那に周辺を示した。
紫色の大気が渦を巻いていた。ちょうど、彦星の宮殿に近い。
「華仙人たちの種が一斉に爆発した場所。最期まで生きていたのが紅月季の仙人。おまえの、手に宿ったやつだ」
紗那は種になったままのコブを見詰めた。
紫の大気を突っ切っていく。汚染されている空気だ。酷く、胸が痛い。
「こんな場所があったんだ。あんたの役目って、この場所を護ること?」
「さあな。そんなに酔狂じゃねえし」
目指す蒼杜鵑は珍しく人間姿で立っていた。蒼髪は遠目からもよく目立つ。
「連れて来たぜ、愛に呆けた救世主」
「伊織は、ほんに呆れるほど、おぬしが好きなんじゃな……いやはや……」
言葉に、冷や汗が噴き出て、代わりに涙が引っ込んだ。
(もしかして、昨晩のアレ、見てたんじゃ……妖しい。仙人は千里眼があるというし)
想った瞬間、杖が飛んできた。仙人は心を読むのだ。悪口も言えやしない。
「逢うなと言っても逢いよる勢いに感服してるだけだ。人の心は支配出来のぅてよく言った。おぬしの心の眼は、本当はどうなんじゃ? 嬉しいんじゃろ。さすがの紅月季もおぬしの頑固で一途な愛には勝てまいと見た、騒がず一晩中大人しかったからな。何かあればと貴人を近くに寄越したが」
「俺は寝てたからな!!見てねえぞ!」
眼を剥いた紗那に蒼杜鵑は杖を大気に翳して見せた。紗那も見上げると、何か黒雲のようなものが広がっているが見えたが、すぐにちらっと消えた。
(気のせいかな、何か蒼空に見えた)
「呆れてモノが言えんが、おぬし、ユグドラシルがどこにあるのか知っているか」
「伊織のそばで引っ繰り返ってる。なんでそうまでして彦星の役割を果たそうとするんだか。そうまでする必要はあったのかな」
「昨晩聞かなかった……のだろうな……失言だった」
頬を赤くした紗那に蒼杜鵑もまた口調が緩くなった。
「……うん、そんな暇、なかった……し……もう、夢中……」
(駄目だ! 言い訳が全部変に聞こえる。もう、説明するの止め!)
仙人何でもお見通し。頬を熱くして指をぐりぐりした紗那に、やれやれと蒼杜鵑は続けた。
「伊織は気付いたのかも知れんな。本当の織姫と彦星の為すべき事項。願いを護るその意味を。この世界は掠奪に遭った。我らはその復讐でここにおる。
織姫と彦星の運命を書き換えてまでも、本懐は天上だ」
真っ直ぐに指された空を見上げてゾッとした。
雲は黒く翳り、蛇行して畝りをあげている。
空は冷ややかでいて生ぬるい。
「変な、においがするけど」
空から降るようなにおい。甘いようでいて堕落の気配の。「不穏な空気じゃ」蝦蟇の言葉は尤もだった。
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