第34話 蒼い銀河に触れて

***


「三枚の絵を見たよ」


 伊織の上で眼を開けた。伊織はと見るとずっと紗那の頭に腕を貸していて――……近くの頬を突いてみた。伊織は紗那の頭を撫でながら胸板に引き寄せた。


「三枚の絵?」

「黄泉太宰府にあったんだ。一枚目は女禍だけど、どうみても妲己。二枚目は殷の王、三枚目は――」


 伊織は何故かそこで言葉を打ち切り、柔らかな紗那の髪を手で掬って、口元に掠らせた。


「伊織でいっぱいのセカイって言ったね……あれ、どういう意味?」


 黒檀の眼が煌めくと恥ずかしくなって、もごもご顔を押しつけた。いつもながら、盛り上がる最中は構わないが、正気に戻ると、何と言うか。「ん?」と少し大きくなった眼に肩をすくめる。


「こうやってずっと一緒に過ごしたいって意味だよ。ねえ、自然な何も恐くない行為なのに、怖がってたよ。ねえ、あたし、ちゃんと出来てた?」


 伊織はあふ、と欠伸をして見せて、「ご馳走さま」なんて茶目っ気を出して見せる。


「ねえ、伊織」冷たい胸板に頬を押しつけると、幾度も紗那を包み込んだ、柔らかな少し早い鼓動が聞こえる。


「星迎前夜だよね? またセカイから逃げて、二人でひっそりと暮らせたらいいね。あの時みたいに」

「そうだね」とは言えど、もう絶対に叶わない夢だと互いに分かっていた。互いの立場はもう重要で、あの頃のように身軽ではない。古代中国に行ける奇跡もないだろう。


 ――織姫さまと彦星さまが、いつまでも仲良くいられますように。


 地上の願いのまま蒼い銀河を一緒に超えられたら良いのに。


「……いつまで続けられるか分からないが。今のきみの願いは?」


「伊織が、落ち着いてくれること!」

 

 紗那は真っ赤になって言い返した。

 紗那のささやかな願いはしれっと流し込まれた灼熱の愛の前、弾け飛んで消え去った。手の中に一つだけ残ったペレットは、金色に輝いていた。握り締めれば締めるほど、黄金に変容する気がした。

 忘れない。たゆたって、浮かび上がった、小指で交わした幼子たちの約束を。

 伊織は再び紗那に入り込みながら、きつく腕を絡めると紗那の自由を奪う体制に導く。紗那の希いだと知っているからこその行為で、紗那も素直に甘えることが出来た。


「バカだね、きみは。僕はいつだって逢いに来たのに。僕が彦星に成り代わったのはきみの為だ。困るって顔に書いてあるけど、困らせて欲しいなら、罪悪感は要らないな」


 伊織はふ、と笑うと、リネンを噛んで堪える涙を浮かべた紗那の頬を何度も撫でた。手を引き寄せて眼を閉じる。


 幼なじみとして出会って、もう大人の時期も過ぎる。


「一緒に超えよう」


 ――僕らは、子供から、大人になって。恋人同士になって、明日からは、敵になる。


 だから、この夜だけは、一緒に眠ろう。棘の途をゆくまえに。


 ――わたしたちは、明日、どうなるのだろう。でも、今だけは幸せだ――。



***


 手を伸ばせば黄金の蒼空が掴めるかも。くたりとなった織姫をそっと横たえる。手がもぞりと伊織の上着を掴んだ。


「僕がきみを殺せるとでも? 相変わらず阿呆な織姫」


 伊織は紗那の手を強く握って、呼吸を繰り返している頭を撫で、ハッと気付く。


(僕は紗那に好きと伝えていない気がする。いや、伝えていない……)


 伊織は口元に指先を当てた。頬が熱くなった。やっと受け止めてくれた紗那に、言葉をと思っても上手く言える自信がないが、言うべきだろう。そこは。


 伊織はしばらく考え込んでいたが、やはり告げるは無理だった。

 言葉が出て来ないのだから、仕方がない。


 蒼空はいつになく輝いている。ここは天上セカイ。蒼空も海も、銀河海だ。


 ――まだ、想い出などにさせない。織姫と彦星、最後の役割を果たすまで。だから、本心はまだ言えない。だから、好きを告げるはまだ早い、と思い込んでおこう。


「紗那、三枚目の絵には」すやすやと眠る織姫には言葉は無縁か。


(このセカイは何のために作られ、どうあるべきか。決まっている。思い通りにならないセカイなど、願い下げだ)


 伊織は静かに立ち上がると、一度だけ紗那の頭を撫でた。部屋を出た瞬間にノエラとすれ違った。銃を思い浮かべたが、ノエラは何も言わず、通り過ぎて行った。


 それだけで織姫は護られていると分かる。


 君は愛されるべきだよ。


 伊織は言わずに立ち去った。


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