第33話 時を超えた抱擁

 涙で伊織が揺らめいている。その雫を指で掬われて、紗那は大きな目を伊織に向けた。伊織は大きな手で紗那の両方の頬を包み込む。


「彦星? 伊織が彦星なの?」


「僕は彦星の権利を手にして、セカイに認めさせた。犠牲になった兄にお悔やみを」


「犠牲って」

「致し方ない。ユグドラシルに僕を彦星だと認めさせなければならなくて。殺してはいない。しばらく目覚めないだろう。さすがの僕も長官殺しでは、成り代われないからな。分かるかな、もう見えない?」


 紗那は眼を瞠り、うっすらと伊織の周辺に白い靄が纏わり付いているのを発見した。ユグドラシルの感覚だが、伊織はす、と片腕を上げて、大気を掬うように笑った。


「ちゃんと引っ繰り返ってるんだよ。〝歴史に捨てられた時代が眠る場所。すべての時代にはユグドラシルがあるが、逆さになったじゃ。悪が栄えると彦星のそばで引っ繰り返るじゃ〟……と蝦蟇の言葉通りに。『悪が栄えると彦星のそばで引っ繰り返る』んだ」


「伊織、あんたまさか自ら……!」


 言葉は熱い唇に覆われて、続かない。伊織は黒檀の瞳をきらめかせると、紗那に強い口調で告げた。


「だから僕に優しくしろと言ってる。以上だよ」


 胸が詰まった。伊織の表情は能面だ。笑っているようで笑っていない。


「僕は後悔なんかしやしない。きみが織姫なら、彦星は僕に決まっているだろうよ」


 ――どうしたらいいんだろう。この胸のモヤモヤは、二人なら解消するのだろうか。


(もう、阿呆なあたしにも分かる、伊織……そんなにあたしが好きだった……?)


 愚問だ。伊織はいつだって危険を顧みず、紗那を求めていたと知っていた。


紗那は子供で、応えてやれないまま、無情にも過ぎて行く時間を見送っていただけ。


(ごめんね、ずっと逃げてたよ)


 その合間に、伊織は何度、紗那を求めたのだろう。起きるはずのない織姫の欠片まで揺さぶり起こすほどの恋心。多分、伊織は彦星になるために、実兄を利用してまでも――……。


 紗那は眼を強く瞑った。


(そこまでの愛情を、あたしは受け止めなければいけない。受け皿が小さいからきっと零れる。それほど、伊織の愛は深く、色褪せないものだ)


「どうして、そういうことばかりするのよ…… ひねくれものっ!」


「僕は元々捻くれていたよ」

「でも、伊織を救いたい」


 刹那、紗那は伊織の手首を掴んで、渾身の力で押し倒していた。きょと、としながらも伊織は紗那を抱き留めてフフと笑う。


「普通は逆だと思うけどな」

「これでいいの!」


 覆い被さってキスして、紗那は伊織を覗き込んだ。伊織が腕を上げて、紗那の眼の涙を指で拭う。


「僕はきみの彦星でいたかった。一番の悪のそばで引っ繰り返る。その殷で学んだ原理を利用しただけに過ぎない。元々彦星因子があったからだろう。楚一族は殷の王と繋がる家系なんだ」


「帝辛さまと……」


 紗那は伊織を見下ろした。似ている。時代を超えて、感じた何か。駆け抜けた理由が見えた気がする。


「誰もが、どこかで繋がっているんだ、きっと」


 紗那は仙人から預かった、伊織の願いの光珠をずいっと突きつけた。


「綺麗なねがいの宝珠だ」

「伊織の本当の願いが入ってる珠、ここに持ってるんだけど」


 はっと伊織は顔色を変え、唇を噛んで顔を背けた。


「顔、背けた。これが本心なんだよね。なのに、彦星になんかなって、伊織、一人で背負うつもりなの?! 昔からそうだった! なんでも一人で抱えちゃって何も言わないよね!」


「……るさいな」


 伊織は忌々しそうに呟いて、じろりと紗那を睨んだ。


(そこで睨むか! 逢いに来て、うるさいだと? ええ、わたしはうるさいよ、昔から!)


「伊織。分かってくれれば、この苦しみも終わる。ちぐはぐなアタシたちがどう愛し合うかは見えないけれど。どんなかたちだって伊織となら、努力するつもり……あ」


 最後の一枚を落とされて、紗那はばっと腕で見えた胸を隠して這いずった。伊織は静かに一糸纏わぬ姿の紗那を見詰めていた。


「見ないでよ。どうせ妲己みたいに大きくなんかなってないから」


「いや、綺麗になったと思って。どうやって戴こうかな」


 伊織は涙目の紗那をじりじりと壁際に追い詰めるようにして、褥に膝を進めて嘯くと、足を丸め、硬直させた紗那のこめかみから唇を押しつけ始めた。こめかみ、頬、首筋、胸と頭が下がっていく。紗那は壁に手を当てて、上半身を捩ったが、壁際で逃げられない。


「そんな泣きそうな顔するなよ。大丈夫だから、今夜こそ紗那を愛させて」


「この、へそ曲がり……そゆとこ、嫌い」


「へそ曲がりで結構だ」


 言葉に手の拳が震えた。


「紗那? 僕とこうなるのはいやか?」

「ううん、違う。上手く、受け止められないなあって。伊織、色んな愛をくれているのに、受け止めてあげられてないなって……」


 広い褥に広がる髪を掬った伊織は、少なくとも「彦星因子」など持っていない少年にみえる。 


(大丈夫、あたしを殺そうとなどしない)


 伊織は無言になった。困らせたと、紗那はそおっと伊織の首に腕を回して首を傾げる。


「殷で途中だったね。全部を僕のってヤツ、これのこと?」


「忘れたよ。集中しないと、無理矢理のキスするよ」

「うん、して、ちょっとラクになる感じがするから。あのゾクゾクが欲しい」


 こうしてぴったりと肌と唇を重ねていると、これが当たり前な気がしてきた。織姫も、彦星も、古代中国の恋人たちも。こうやって有史の男女は愛を確かめ合って来たんだって。


 今夜は星迎ではないけれど、きっとあたしたちが確かめ合う番――。


 今なら言える。ずっと言いたかった――。


「あたし、もうセカイなんか要らない。伊織を取り返せればそれでいい……! いつもいつも、あたしを困らせてよ。伊織でいっぱいのセカイのままにして……っ」


 結ばれた瞬間は、もう手放さないと誓う。二度とどんなことがあろうと、忘れたりしない。紗那は伊織の肩に顔を埋めて小さく叫んだ。


 伊織が紗那の名前を呼んだかは定かではないけれど、出逢って、育って十数年の時を超えて。


 紗那は一度だけ見た編まれた夜の美しさの幻想を思い出していた。


(あたしは、もう一度だけでいいよ。夜空を編む伊織が見たい。織姫の特殊能力は伊織だけが持ってる。でも、何故夜空を編む能力が伝えられたのだろう――)


 蒼い時間を同じにして、銀河を夢見て初めて一緒の夜を越える。繋いだからだは熱すぎて、どこか隙間から熱を逃がしたくなるほどで。


 互いの違いに魅了されてしまった時代をバカだったと伊織は言って言葉を遮るように笑っては再びの抱擁の腕に力を込めたのだったーーー

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