第32話 幻との約束

 織姫こと紗那に用意された寝所は広い。真鍮の柱、天井からつり下がった大きな幾重にもかかった天幕。珊瑚で固めた壁はキラキラと塩の結晶のように青く光る。


 両腕を伸ばしても充分に余る寝所には唯一の華が活けてあった。


「織姫、どうぞごゆるりと」


 ノエラに寝具を整えてもらい、就寝する前に、一杯の白湯。

 ひとりきりになると、数年前に伊織と駆け抜けた殷のセカイを思い出しつつ、幸せな一瞬を噛み締めながらの入眠が紗那の日常だった。しかし、今夜はさすがに脳裏に浮かぶ事項は……。


 紗那は先程の伊織の情報を反芻した。ノエラと慌てて織姫星宮塔に戻ったはいいものの、会議しようにも精神的に無理だと言われ、休養を押しつけられたところである。


『ウェルドの同志より連絡です! たった今、現千織司令長官から引き継いだ楚伊織が、現黄泉太宰府の副長官に就任! 我らの束縛に動くそうです! 織姫星宮塔と領域を管理下にするため。同時に織姫の暗殺指示も出たかと!』


(伊織が、束縛とあたしの暗殺指示を本当なんだろうな、伊織だもん……)


 ぽふ。と肌触りの良いシーツに顔を埋めた。どうしようもない感情が堰を切って溢れ出る。


 大好きな伊織が、このわたしを暗殺する指示を出した――。


(では、ウェルドの長官はどうなった。まさか、伊織が……)


 幼なじみで、伊織のことは良く知っているようで、知らない。でも、あの伊織の性格なら、なんとなく進む道を血で染めても平然としている気がする。野望を手にするためなら、伊織は何でもやってのける。常に残虐な一面は見え隠れしていた。


『彦星に成り代わり、織姫を終わらせることは織姫を殺すこと』如何にも横柄な男の考えそうな策略ではないか。


 紗那は親指を噛んだ。「簡単に、殺されてなるものか」ぼやいて、何だか変だと首を傾げたくなった。まるでその行為が紗那を求めているようなーー


 ――終わりにすると、殺しに来るというのになんで胸がこんなにときめくんだろう。


「……? 良く分からないな、伊織もわたしも」


 こういうときは、想い出をなぞる。一年に一度しか逢えないセカイから逃げた駆け落ちの。


 ――楽しかったな。狐になって、気楽に走り回って。伊織も、普通の男子って感じで、楽しそうだった。やっぱりお互いが楽しいと嬉しくなる。

 初めてのキスをして、ちょっぴり恥ずかしがりあって、でも、好きなだけ二人でいられた。


 帰って来て早々、別れることになっても、伊織は良く逢いに来てくれた。


 織姫に優遇されて、みんなとも離れて。当然ながら伊織の考えなど紗那には理解できるはずもなくて。


 その上で、伊織の記憶とねがいを知った。男の子なのに、織姫への憧れが強すぎて、両極端の性の間で揺れていた伊織。


 新人類は新人類を以て制す。


 あの言葉の意味はきっと伊織自身の本性か――……。


 紗那は再びぼふっと幾重にも重ねられた褥に仰向けで倒れ込んだ。


(星々の光を指先で編める特技は二度と見られない。濡れた蜘蛛の巣の如く、とても綺麗に輝いていた。編み物上手で、綺麗な伊織。伊織は間違いなく天女の血を引いてる。納得してたのに。伊織はずっと動きが取れなかったんだ。蝦蟇に貰った。ここにちゃんとあるよ)


 眠っていた織姫としての血と、続いて来た彦星の血……伊織は両方を抱えてしまった。


 紗那は胸元から願いの宝珠をそっと掬った。一人、苦しむ伊織をどうすれば、止められるだろう。寝所で眼を閉じ、また眼を開けた。


(世俗から切り離され、至高のために用意された天の場所か。本当は、ここにいるべきは伊織のほうかも……)


 紗那の両眼から涙が溢れた。


 ――いつまでねじくれたセカイで、頑張れば幸せになれるのだろう――……。腕で顔を覆った。それでも、頬に冷たい雫は滑り落ちた。唇だって自然にふるえる。


「伊織……さみしいよ。この寝所、広過ぎるし、珊瑚も冷たい。銀河海も冷ややかに見える」


 織姫として、いやいやでも君臨することになって。セカイを手にしようとレジスタンスを画策した。でも、それは全て、たった一人を取り返すためなのに。


 ふっと光が一瞬消えた。またすぐに元に戻った。


 ――ねえ、伊織。


(セカイを手にするとは、孤独になる。なら、セカイなんか要らない。狂いそうだ。寂しさの悪魔には勝てないよ。伊織がいれば、もう最高のセカイだったんだって。今頃気付くなんて)


「いつだって気付かないんだから! バカだよね、わたしも伊織も」


「そうだね」と窓から声。

「伊織?」と窓に駆け寄るが、地上からの相当な高さがある星宮塔だ。仙人くらいしか訪れないだろう。だから警備も手薄である。


「ばか」と拳で額を軽く小突く背後で、また忍び笑いが響く。


「ひとりで僕のことばかり考えていた? 紗那ちゃん、それって危険な行為だよ」


「考えてないってば!」

 焦って独り言を呟いた紗那の手に、優しい感触が触れた。


「それは残念」光少ない中で、ぐいと引かれて、押し倒された。月明かりもないし、暗くて見えないが、鏡のように反射して寄せては返す銀河が時折眩い輝きを照射する。ああ、伊織の唇だ。いつだって、手を握り合いたい相手。欲しかったのは、この体温と無我夢中になれるキスだった。幻にくらい、素直になろう。いつだって、わたしは寂しいって言えないままに大人になったんだから。


「伊織、寂しい、寂しかった! うん、たくさん伊織のこと、考えた!」


 しっかりしたからだに腕を回して、髪に指を絡ませた。切ってしまったようで、あの美しいたなびきは見られない。手が背中の衣装の紐を緩め始めた。たくさんの紐の順番を間違えずに解かれて行くたび、一枚一枚、布がゆっくりと減っていく。


「僕も脱がせて。織姫を穢しに来たんだ」


 それにしても。この台詞の天の邪鬼ぶりまでリアル過ぎる。いや、いるはずがない

 ……じゃあ、この感触は何、さっきから気になって……。


 紗那は伊織の部分に手を伸ばした。「こらこら、好奇心?」と少し落ち着いた青年の声。「こっちにしようよ」と手を胸に当てさせられると、確かな鼓動が紗那の掌を震動させた。紗那はがばりと起き上がった。足を振り上げた弾みで、伊織の脇腹を蹴る格好になった。


「っ……。足癖変わらず」


「本物の伊織?! あんたどこからまた来た……っ!」


 伊織はひょいと窓を指した。


「勝手知ったる織姫星宮塔。ここの警備が手薄なのは周知でね。一瞬光を落とさせてもらって、監視鳥を避けてベランダへ。ふいに、逢いたくなった。僕は存外諦めが悪いんでね」


 呆気に取られ、ぽすんと座った紗那の横に伊織は寝転び、指で紗那の頬を悪戯した。


「紗那、彦星には優しくしてこその織姫だ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る