第15話 セカイコードの中で③
紗那と寄り添って夜を過ごしている間に、二度ほどの空腹のサインを必死で堪えた。朝になると紗那は帝辛の傍に戻って行った。
さて、残された伊織はしぶしぶと妲己側の宮殿に引き返したところである。
(さすがに腹が減った。だがな、蛙の黒焼きなんぞ、死んでも喰いたくないから!)
爬虫類好きの妲己のペットに甘んじているお陰で、ひたすら出されるのは爬虫類の黒焼き。どうにかして妲己の人間用の膳を口にしなければ事切れてしまいそうだ。
(かくなる上は……強硬手段)
「あ、わらわのおかずを!」
わざと足を滑らせて、妲己の膳の鳥の丸焼きを銜えて、身を低くして、軒下に逃げ込んだ。(くそ、この僕がこんな惨めな食事)悔しさもひとしおである。しかし空腹は収まったようだ。
紗那はちゃんと食べているだろうか。鶏塩を舐め取りながらふと昨晩のキスを思い出す。女の子はキスを重ねると成長する。自分の唇は好きな子を育てるのかも。伊織は手をわきわきと動かした。
(ふーん、僕も紗那もキスの繰り返しで萌えるのだな……紗那も反応していた)
あの時月が蔭らなかったら。紗那の柔らかそうな四肢に「彦星因子」のまま手を掛けていただろう――……ほどほどの膨らみはちゃんと伊織の指に反応を返して来たしあのまま月が蔭らなければ、僕はきっと紗那を手に出来たのに。
(……やめよう。悔やんでいる暇はない。紗那はいずれ手に入れる。俺だけの織姫として。それよりも)
ぺろ、と手を綺麗にしたところで、「黒、どこへ行った」と妲己の声。
「腹が減っているなら、たいぼんで蛇を丸焼きにするから、お裾分けじゃ。たんと食える」
(たいぼんとはなんだ?)拝借したおかずの汁を舐めて、興味から妲己の首に絡まった。
妲己は伊織が首に巻き付くと嬉しそうに頬ずりする。
「では、たいぼんを見に行こうかの。妾の傑作じゃ!」
.....興味だけで首を突っ込む事態ではなかった。たいぼんとは、妲己発案の処刑場だ。庭に掘られた大きな穴には(伊織の大嫌いな)無数の蛇と蛙が犇めき合い、蠢いていた。更にどでかい鰐が三匹。穴の途中までは途がある。数人が追い立てられて、あっという間に穴に消えた。
「人の死は美しい。残虐であればあるほど、悪は美しくあればあるほど、生きる力もまた輝く。これで、天女の妾の役目も終わるわ……天に戻れるのじゃ」
妲己は滔々と、言葉を弾くように口にしたが、天女の言葉に伊織は腑に落ちた感覚を噛み締める。それなら、納得がゆく。
――妲己は、天女。やっと繋がりがみえた。
「もう間もなく殷時代は終わりを告げよう。西岐から、愚鈍な男たちがやって来れば、妾も、帝辛も皆殺し。狐、そなたの神の世界はどうじゃ? やはり殺しはあるのかえ?」
妲己は呟くと、手入れの行き届いた指先で、伊織の顎をちょいちょいと悪戯する。心地良さにぼうっとなったところに、くすんだ木々の影が浮かんだ。
〝伊織、この時代にもユグドラシルの木が。引っ繰り返ってるんだ〟
――見たものだけを信じろと、言いたいのだろうか。
(ユグドラシルの木々を従えれば、彦星になれる……悪の傍で引っ繰り返る。利用すれば彦星に成り代われるか……だが、どうやって)
妲己は、伊織を愛おしそうに撫でた。
「妾は皇妃として、最期まで帝辛のそばにおる。ずっと昔から、決まっておる約束。愛した想いも、残るのか。妾はそれが知りたいだけじゃ」
(約束? いつから?愛した想いも残るのか……)
伊織に向かって、妲己はふわりと笑った。胸が締め付けられる。理由なく、皆殺しになど、させてはいけない。憧れの織姫が重なり、伊織の目尻から熱いモノが零れ落ちた。
「狐、妾はおのれが好きじゃ。だから、逃がす。桃色が待っておるぞ。お行き」
視界が低くなって、蛇と眼があった。(うっ)。ちろ、ちろちろと舌を伸ばされ、伊織はくるりと背を向けた。
(紗那、この時代にもユグドラシルの木があるのなら、ここは天界とも言えるんだ。ユグドラシルが常にどこにあるか、覚えておいたほうがいいな)
伊織は空中を見上げた。真横に倒れている木の幻影は殷を覆い隠すほどに巨大だ。空気に透けた木は、地面すれすれまで下がっていた。
(あれを元に戻せれば……帝辛の運命は呪から変わるのだろう。でも、どうやって)
コーン……狐の鳴き声に、はっと振り向くと、桃色の狐の姿、紗那だ。紗那は理由なくしょんぼりと項垂れて見せた。(紗那?)尻尾を下げ、とぼとぼと戻ってゆく……フリをして、伊織のそばを駆け抜けた。
(あの、おてんば暴れ織姫! また勝手な行動して!)
追いかけたが、紗那のほうが足が早い。ユグドラシルの枝葉が揺れた。伊織は全力で走りながら、紗那の背中に語りかけた。不思議と元気よく駈けていく女の子の姿が透けて見える。次元が違う伊織と紗那は、透けることで、在るはずのないセカイに存在しているのかも知れない。
(いや、きっとそうだ。ここは別次元なんだから。僕らは異質であるべきだ)
時折集中が途切れると、紗那の姿はうすぼんやりと狐の輪郭に見えるが、伊織は何とかいつもの紗那を見続ける術の手応えを掴んだ。やはり、セカイの断面図を思い出すと、このセカイは同じく同時に存在しているとしか思えない。霊的な柵。あそこが分かれ目だったのだろう。
「紗那、待て! 喧嘩している場合じゃないんだ。ユグドラシルはまもなく地面に堕ちる。どうなるか、見当もつかないが、あの木はミズガルズのものだ。帝辛と妲己はどこで繋がった? それとも、最初から、ユグドラシルは地上にあったのか……この時代で見抜くしかない。僕らの姿は透きとおるけど、僕らには見えるはずなんだ。紗那、僕が見える?」
「あれ、伊織……いつもの伊織? ……妲己のほうがいいんでしょ。お幸せに」
「――っは」
「笑った! ひどいっ。今日の伊織嫌いだよ!」ぽかぽかやられて、伊織はゆっくりと告げる。
「男が美女に惹かれるのは、摂理だ。愛情じゃないから」
「屁理屈ばっかり! 伊織、今にあたしがすっごい美女になっても、絶対触れさせないからね!」
「勝手に奪いに行く。頑張ってガードしな」
腹黒の言葉に、紗那はまたぽかんとなった。「その、顔」と笑って頬を突いてやった。すっかり元のふれ合いが可能になった。蝦蟇の術が早々に溶けたのか。それとも、愛情がたしかになったのか。謎は深まるばかりだ。しかし、手をこまねいてはいられなかった。池に二匹の狐が映り、水面と一緒に揺れた。
「伊織、どうやらあたしたちはみんなから見ると、狐みたい。でも、あたしたちはちゃんと」
「紗那は僕だけに見えていればいいんだ」
「またそういう言葉……ねえ、たくさんの足音が聞こえない?」
狐の感覚は鋭い。「行こう」ふわりと伊織は紗那の手を掴み、飛んだ。
このセカイの終わりは近い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます