第14話 セカイコードの中で②


 ユグドラシルの中は澄んだ空気に満たされていた。光が集まっている。


(ユグドラシル。あたしを入れてくれたの?)


 ――振り仰ぐと、出口は遠く揺らめいて靄の奥に隠されている。紗那は浮遊して、ゆっくりと舞い降りている自身に気付いた。心地良い草原にさっと身を屈めた。男女が二人、寄り添って遊んでいた。


《声が聞こえる……風の優しさにふわりと乗って》


「貴方さまには、神として生きるべき道がございます。民衆をお導き下さいませ――いつか、殷は地上の楽園と称されましょう。夏王朝の呪いもいずこへか消えるでしょう。殷は文字通り、素晴らしき国と歴史に遺る。遠く、信じております」


「ああ、必ず。殷はきっと立ち直る。勉学を能くし、民衆全てを幸せにしよう。さすれば、呪いにも勝てるやも知れぬ。必ずや再会し、ややに「ちちうえと呼ばせてみせる」


 夕陽の中、男女はしっかりと手を取り合い、祈るように動かなくなった。


(あれ、帝辛さま……妲己じゃない……でも、何か、異様)


 気付いた女が紗那を視線で射貫くように睨め付けた。

v映画の如く、紗那の眼の前のセカイも閉ざされ、紗那は気付けば雨樋に転がっていた。


 モフモフの手が見える。


 ――戻って来た。


(あの二人は誰だろう。伊織ともう一度見られないかな)

 その時、コーン……狐が甲高く鳴く声が耳に届いた。ひょ、と顔を覗かせると、真下の庭に黒い毛皮が見えた。狐になった伊織の立派なふさふさの尻尾が動いている。少し毛の硬い紗那と違って、伊織狐は真っ黒で天鵞絨だった。伊織は白い手足を綺麗に揃え、紗那を靜かに呼んでいた。


(伊織)と紗那は伊織のそばに寄り添った。すすっと伊織が逃げた。ムカっと来て足を止めた。伊織はやれやれと言うように歩き出す。辺りを伺うと、帝辛の台座に飛び乗った。


 宮殿はもぬけの殻。伊織は巻紙を引っ張り出すと、小筆を蹴り、両手でキャッチした。


 咥えて上手に墨を含ませた小筆を、紙に走らせる。全く狐になっても器用な男である。


『異常はなかったかい』伊織の字は女性のように流暢だ。紗那も真似して筆ででっかく『ない』と短く書いた。


『これから、何かが起こる。断言してもいいよ。多分、ここが僕らのセカイの天上ミズガルズと、地上の殷の境目だ。何が待つのだろうね』


 サア……っ。天界にはない月が夜空に光を刷く。 天の河が蒼空にもあるなんて変だ。揃って空を見上げた。


「夜が来たね」


 とても空が遠くて、どうやって戻ればいいのかも分からない。


(流石に、心細くなってきた。そろそろ人の姿の伊織に逢いたいよ……意地なんか張らないから。伊織の腕に抱き締めて貰いたいな。ここでなら、素直に願える気がする)

 だから、お願い。織姫さま――……伊織に逢わせて。


(その時、サアアと月の一段と蒼白くなったヴェールが庭に降りた。あたしはあまりに静かに光が舞うから、月が降りたのかと思ったんだ――……そんな現象あるはずないのに)


「伊織、どうやって狐から戻るんだろね」


「さあ……? これが蝦蟇たちの仕業ってところは確かだろうけどね」

「蝦蟇たち?」

「仙人は得体が知れない。まして龍神ともなれば」


 いいかけて腕を伸ばした伊織はあれ? と自身の腕をさすり、紗那を見てぱちくりした。紗那も眼をぱちくりさせた。


 元通りの人型に戻っている。伊織は変わらない冷静さで、肩をこき、と動かして見せる。


「言ってる側から、戻った。どうやら、一定の波長の月光を浴びると、戻れる様子だな」


 月はそこにあるようだった。

 さっきはひどく遠く感じていたのに。


「そっか。視界が低いからもあったかも。空がね、遠く感じたんだ。あたし今、願ってたよ。そろそろ伊織に逢いたいって」

「僕に……?」

 伊織は眼を細めると、じっと紗那を見詰めた。幼い頃とは違う男の目に晒されて、紗那はふいとそっぽを向いては伊織を伺おうと視線を戻した。服の紐が気になって、直したくなる。狐の時にカーってなったせいか、髪も乱れていた。


何だか心の準備が……。


「なにか、あった?」いつになく頬が熱い前で、伊織は眉をひょいと下げた。

「な、何も? あ、そうだ。伊織、このセカイにもね、ユグドラシルの木があったんだけど、引っ繰り返ってたんだよ」


 伊織は目を瞠った。興味を示したことに嬉しくて、紗那はいばって続けた。


「この宮殿の真上。夜は見えないのかな。屋根で見て、中に潜り込んだらね」


 伊織はむすっと怒りを顔に出し、くるりと背中を向けてしまった。


「ねえ、伊織、それでね、ねえ、なんで怒るの?」


 伊織はギロリと紗那を睨んだ。


「僕がいない時に、危険な……全く……。逆さになった木は呪いを受けてるんだって蝦蟇から聞いただろ! 危なっかしいたらありゃしない!」


 一喝に呆気に取られ、(はっ)と呆気にとられた自身に気付いた。


(なんで。なんで怒られなきゃなんないんだよ。伊織なんか、妲己の豊満な腕でのほほんとしてたくせに。このドスケベ野郎! あんた最初も織姫の湯浴みノゾキしようとしたよね!……)


 言葉がなければないで、また困る。これでは仲直りのきっかけも掴めやしない。


 結局同時に「あのさ!」と切り出して、更に「どうぞ!」と譲り合った。池の蛙がぺこたん、と逃げた。涙目で蛙を睨んだ伊織がようやく肩を竦めた。


「言いたいことがあるようだな」


(素直になる、素直に……)


 言いきかせていても、どうしても拗ねたくなる。結局出て来るのは当て擦り。


「伊織は妲己とかいう人の腕でのほほんとしてたよね。幸せそうにさ」


 伊織は意外だと言いたげに眼を見開いた。あまりみない伊織の反応。

「な、何?」


 今夜の伊織の間の取り方は、ちょっと艶めかしい気がしてならない。


「もしかして、紗那、嫉妬?」

 

 図星を指されて、紗那は一気に頬を火照らせた。返事に困っていると、「ふうん」と伊織は紗那の両肩をぐいと掴んだ。


「嫉妬なんかして知らないぜ?」

 薄い唇を近づけようとして来る。顔を傾けた伊織に(ひい)と眼を瞑った。


 月が蔭ったのだ。

 2匹は団子になって転がった。


「ちっ」キスし損ねた伊織はいきなり狐に戻された憤慨で舌打ちしつつ黒いシッポで地面を叩いている。


(何だか、伊織カワイイ)本心はそっと心で呟いて、紗那は「(いいよ)」と狐の口元を尖らせた。 キス待ちなら、狐のほうが気が楽だ。狐の内に済ませておこう。それでも、胸の高鳴りは大きく鳴り響くだろうけれど。


 と、また月が顔を出し始め、二人は人の姿に戻った。月光のヴェールが舞い降り、ちょうど合わさった唇と唇が擦れて捲れた。不格好なキスになるのは仕方がない。これが紗那と伊織の初めてのキスだった。


 お互いの唇は緊張で震えていた。緊張MAXで柔らかさすら分からない。


「恋人想いの大層な良い月だな。月が美しいのって、こうして二人でいるからなんだって」


「うん、セカイがきらきらしてるね」


 伊織は紗那を覗き込みながら、「続ける?」と悪戯っぽく微笑んだ。紗那は肩を竦めた。「もっと」と唇を突き出すように躙り寄ると、伊織は思いきったように、紗那の腰を引き寄せた。後で無言のまま、ひとさし指でくい、と紗那の顎を持ち上げた後で、ぶつけるようなキスを仕掛ける。


 初めて見る伊織の獰猛さに、紗那は心を鷲掴まれた心地で、鼓動を跳ね上げさせた。


(伊織、いつもの余裕がない。伊織らしくない。違う、これが、本当の伊織なんだ……)


 驚きのまま繋がった銀糸の向こう。再び繋がるように顔を傾け合った向こうには、古代中国の大気が流れている。


(ねえ伊織。いるはずのないセカイで、もっとも望んだキスが出来た。たった二人だけのセカイが欲しいと願った。そのセカイにいるのかも知れないと――)


「煽ったの、そっちだから」


 言葉少なく伊織は囁くと、「体、緩めて」と紗那の耳元を撫でる。「い、伊織?」上ずる紗那の言葉なんぞ聞く気はないの如く、続く勢いのあるキスに眩暈がした。


 ――わたしたちは一年に一度しか逢ってはいけない。けど、ここでなら。ずうっと一緒だ。


 唇が擦れる度に、ゾクゾクと沸き上がる。伊織が好き、ずっとこうしていたい。喧嘩しても、あたしは伊織が好き。だから、ずっと一緒にいたい。ねがいは間違っていないはず。


 きっと叶う。ううん、もう叶ってる。このセカイでなら。「伊織……あたし」何かを伝えようとしていつも失敗してきた。でも、ここでなら。

「あのっ」キスを止めた伊織は小柄な紗那を抱き締め、肩先でぼやいた。


「帰りたくない。手の届くところで、一緒にいたい。いつだって触れられる距離に置きたい」

 一足早かった伊織の率直な言葉に「うん……」と毒気を抜かれた。


 織姫星宮塔に向かう途中だった。きちんと正装をしていて良かった。伊織はぐいと紗那の肩を剥き出しにして、強く抱き締め、胸に手を這わせた。ひくっと紗那が喉を鳴らすと、その膨らみを手で掬って口づける。伊織の石榴の舌が紗那に触れる度、ゾクゾクが強くなった。


「大丈夫。僕に紗那の全部を――」


 が、それも束の間。気まぐれで意地悪な月は再びの雲の暈を被ってしまい、二人はバランスを崩してまたしても二匹の狐の団子になった。


「なんなんだ! さっきから!」


 伊織は少年そのものの憤慨でまたシッポで地面を叩く。


 狐になったらなったで、恥ずかしさが込み上げた。互いに背中を向けて、互いに足で地面を踏みまくった。あのゾクゾクは彼方に消えてしまって、代わりに恥ずかしさとやるせなさが何度もやって来た。


 ――あの、ゾクゾクは何だったのだろう。危険過ぎる伊織からの胸へのキス。


〝大丈夫。僕に紗那の全部を――〟


そう言われた瞬間、胸が高鳴って、胸が張った気がする。


「……月が近くに降りて来そうだな。これが、地上……」


 見上げた夜空の月は大きく、優しい気がした。月夜でそっと寄り添う。三度目のキスは当たり前のような、安心させる空気に透けるキスだった。


 ――明日からは今夜の三つのキスと、一緒に過ごした時間を思い出しては困惑するのだろう。でも、困らせられても伊織なら。伊織に困らせられるなら、大歓迎だよ。


「僕に紗那の全部を――」


 ってなんだ。


 これが男の顔をした、伊織に心乱される。いよいよ大人へと、織姫へと育つための日々の開花の始まりだった。

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