ユグドラシルセカイコード『殷』

第13話 セカイコードの中で①

 紗那は柔らかな大地の匂いと、血の臭いに鼻をひくつかせた。生い茂った植物の葉っぱの青の香が続いてやって来る。清々しいと思っていたら、やたらによく響く嫋やかな男の声が耳に飛び込んで来た。恰度伊織を大人の声音にしたような落ち着いた喋りだ。



 ――何をしておるのか、我が女、妲(だっ)己(き)。


 ――庭で狐を二匹ほど拾ったじゃ。尻尾が美しゅうて、妾の毛皮にしたいけど、狐は仲間。忍びのうて、殺害出来ん。だから、そのまま首に巻くことにする。おまえ、一匹一緒にどうじゃ? 獣は温かい。心までほんわかするものよ。王、帝(てい)辛(しん)よ。狐も大層仲が良さそうじゃ。


 ――では、朕も一匹。大きな尻尾だ。そなたの元姿も狐だったな。む、柔らかい。


(きゃ、だはははははははははは! くすぐったい!)


 撫で繰り回されて、紗那は笑い転げて落ちた。弾みで床の紋様がぼんやりみえる。驚いて掌を広げてしまい、まずいと拳にしようとした。掌には織姫さまからの預かりモノがある。伊織にもあまり見せてはいけないと言われていたのにうっかり……。


(貴人は種子と言った。種子とは種……うん? こんなに柔らかかったかな?)


 視界がぼやける上に赤味が強い。それに、どことなく視界が低いような気がしていたが、トドメがこの手。どう見ても動物の肉球だ。押すとぷに、とした弾力。お陰で地面も痛くない。


「これこれ。暴れるでないよ。狐。大人しくおし。王の膝にお戻り」


(きつねェ? あたしがどこを見りゃ狐にみえるんだ。そりゃ、ちょっと眼がきついけど)


 ムカっと短気起こして、紗那は反論しようとした。だが、「クウウ」と泣き声が洩れただけ。はっと気付くと池には桃色の狐が映っていた。紗那が首を傾げると、狐も首を傾げた。ぬぬぬと睨むと狐もぬぬぬと睨む。ざばっと手を突っ込むと、狐も手を突っ込んで紗那の真似をした。


(まさか)と恐る恐る紗那は丸い手をしげしげと見詰めた。手足が白い。顔は毛むくじゃら。まさかがまさかではなくなる瞬間。背中の毛が逆立った。紗那は桃色の狐になっていた――。




(どどどどど、どういうこと? あたし、なんで狐に……)


 見れば妲己の首にも黒狐。狐は豊満な胸に大人しく丸まり、デレと眼を垂れさせてご満悦。ちら、と狐は薄目を開けて、そそくさと妲己の谷間に潜り込んだ。

(そうだ、わたしが狐になってるんだ。伊織だって同じはずで……ということは)



 ――アレ、伊織だ! あのエロ野郎! 



 伊織は片眼でぱっちんと目配せをすると、妲己に抱かれてのほほんと消えた。

(どこまでもすけべ根性、バカ伊織!)むがー、と暴れた紗那の手足を帝辛が揉んだ。


「ああして見ると、怒り天女とは思えんな、桃色よ」


 帝辛は紗那を抱いたまま、玉座を立ち、土壁の続く回廊を歩いた。


「おまえに見せてやろう。妲己の仲間とあらば、朕が愛おしいと思って当たり前だ。さあ、持ち上げてやるぞ」


(ひゃ)脇を持ち上げられて、両脚がだらんとなった。忽ち紗那は眼の前に広がる風景に釘付けになった。


 巨大な龍の紋章を掲げた高台の下には爵(しゃく)と呼ばれる酒器の数々に、無数の階段。ぴくりとも動かずに平身低頭したままの大量の人間。祭具を手にした神官たちがずらりと並んだ都が見える。空気は嫋やかで、雄大だ。遠くには霞を背負った山が見えた。蒼空は青く、大地は力強さに満ちている。


「ここは殷虗(いんきょ)だ。今日は祭事。おまえたちが現れたも、神の思し召しやも知れぬ」


(すごい、すごい、すごい……! 空が天界よりもずっと高い)


 綺麗な碧色だ。雲は真っ白。太陽の輝きも織姫の水晶よりも激しく美しい。風の匂いもずっと香しいし、大地のパワーも違う。心の奥まで突き刺すような空気の綺麗さも、花の鮮やかさも、人々も精気溢れた声音も、織姫の支配する天上セカイにはないものだった。


(これが、地上……天界よりずっと清浄で力強いよ。なのに、穢れた場所?)


 雲の合間から見えたセカイとはとてもではないが、結びつかない。


(わたしたちは手を繋いで、時空の狭間を超えたんだ。間違いなくここはセカイコード「古代中国・殷」に違いない)


 ユグドラシルが呪われたと聞いたけれど、美しいセカイに呪いの影は見あたらない。


「どうだ。朕の国は美しかろう。殷の中央部の都市朝歌。疫病も、飢えも、憂いは何一つない。朕の采配は神にも等しい。民に、幸せを与えるための王だからな」


 庇(ひさし)のような広い廊下からは、景色が一望できた。象牙の飾られた美しい正門には商人が出入りしている。帝辛は満足そうに何度も紗那を撫でた。


 ヒゲがひくっとムズついた。やがて、サアアーと小雨が降り始めた。しかし、平身低頭した人々は、一心不乱におでこを地面にくっつけて、背中を丸めている。


「(ねえ、濡れちゃうよ。帰るようにいいなよ)」

「雨は嫌いだ」


 王は興味を失ったように、背中を向けた。その時、とたとたと女性の足音がして、王は足を止めた。伊織付きの妲己とお付きが正面の渡り廊下を渡ってきたところである。


(あ、伊織!)紗那に気付いた伊織はシッポに顔を潜り込ませた。狐姿をいいことに、思う存分美女に甘えている様子。妲己は「しばし遊んでおれ」と伊織を降ろし、帝辛と揃ってどこかに出かけて行った。いい天気だったのに、突然の豪雨。変わらずの平身低頭の民衆たちが気に掛かる。



 伊織はと見れば、紗那のすぐ眼の前で、シッポを揺らして紗那を見詰めている。


(巨乳美女好きめ。そのくらいの膨らみでいいよって嘘つき! あたしだって、育てばきっと。とっておきの美女になったって、伊織なんか知らない……)


 惨めさに任せて階段を降りると、伊織もゆっくりと殷虗の階段を降り始めた。「ついて来ないで」と涙目で睨んでいたら、ぴょん、と人々の列に割り込んで消えた。


 ――嘘でしょ、置いて行かれたよ――……。


(伊織の、ばかっ! 冷血漢! 大嫌い!)


 置いて行かれた事実も、怒りを呼び起こす。じんじんと掌が痛んだ。


 ふと、異世界まで来ても、喧嘩している事実がどうしようもないと思った。ここで喧嘩しても始まらない。紗那は手足を何度か弾ませると、同じく人混みに潜り込んだ。


「伊織? どこ」


 ウロウロしてみたが、伊織は見つからない。紗那の心もゲリラ豪雨が来そうな雰囲気。と、突然シッポをぎゅっとやられた。小さく飛び上がった。振り返ると黒狐こと伊織が小枝を咥えて座っていた。


「(あたし、怒ってんだからね! でも、一緒がいいから赦してあげる)」の意味でぷいと顔を背けると、「こっち来て」と伊織はシッポで指示をした。意地を張っても、やっぱり一緒がいい。紗那の怒り簡単に終了。


 伊織は「めをすて こころでみる」と小枝で地面に書いた。


(ああ、あれね。視覚で見てたら見えなかった天界の木。見るかたちを変える。大気と、心をぴったりと合わせる……あたしもセカイの一部なんだと、感じるような不思議な感覚)


 紗那は眼を開けて、見えた映像に、震え上がった。伊織がシッポで紗那を擦った。映像はすぐに消えたが、生涯この映像は紗那の心に深い傷を残す。そんな予感さえした地獄絵図だった。

 伊織が靜かに首を振った。紗那の眼には涙が溢れた。


 人々は大広場で既に殺されていた。平身低頭していた民衆も、輝かしい正門の前で。


 ふと着物を引き摺る音がして、振り返れば妲己たちの姿が見えた。


(もしかして、彦星……ううん、帝辛も死んでいるの?)


「こころのめ」で視覚を閉ざして、赤い色盲の狐の目で見やったが、帝辛と妲己だけは変わらない。紗那はちらと大広場で倒れたまま、風化している人々へ視線を向けた。王には見えていないのだろうか。それより、絶好の機会だ。紗那は丸い手を揃えて差し出した。


「(あなたが、彦星さまですか。織姫からお届け物です!)」


「手を出しているぞ、帝辛」ぎゅっと手を握って貰って、ぼっと尻尾が熱くなったがそうじゃない。紗那は手を引っ込めた。考えたら、この手に逃げ込んだ織姫の心をどうやって伝えればいいのだろう。それに、狐の姿のままでどうやって。肉球しかない。


(考えるんだ、あたし)


 織姫と彦星は一対。そして、この時代は二人揃っていて……もしかして、ここがはじまり? 考えると納得が行く。殷の時代の男女から、織姫と彦星が生まれたとしたならば。突拍子もない話だけど、ここはどのくらい前なのだろう。

 紗那は柱に刻まれた文字を読んだ。



《BC00200……BC00119……BC00118……》



(変なの。時間が戻ってる。BCなんて年号聞いた覚えもない。伊織なら分かるかな。でも、まだアタシたちのセカイはない)紗那は帝辛の王座を見て、ぎょっとした。


 台座に掘られた龍は見た覚えがある。脳裏がビクビクと震え上がって足元を冷やした。


(あの玉座、あたしの身長と同じくらい。同じことを確か)


 ――まさかと思うけど! まさかだけど! 確かめずにはいられない。


 紗那は無我夢中で屋根に続く階段に躍り出た。小柄だから動きやすくて助かる。雨樋を慎重に渡って、宮殿の屋根で足を止めた。


 殷の大地は少し窪んでいるが分かる。ちょうど蟻地獄を想わせるような、擂り鉢状に螺旋を描いていたのだ。土の城。風が乾いた大地の砂礫を舞い散らせる、大地の都。朝歌。遠目から見ると、まるで、あの彦星領域と同じだった。


 王の輝かしい玉座こそ、紗那が蝦蟇を見つけた祠だった。あの場所とここは同じ証拠だ。


(なら、ユグドラシルの木もあるの? 心の眼だよ、紗那、できるよね?)


 紗那は感覚を遠くにし、心で飛び込むように景色をぼうっと眺めた。視覚を手放すような感覚は、掴めればあとは簡単だ。セカイが透きとおるを待つだけ。


 ――あっ……た……っ! 殷の上に聳える大気! 


(天界の木が、地上の殷にあるなんて。でも、なんか変だよ。これって……)


 ユグドラシルの木は、ちょうど頂点がギリギリ屋根にかかるくらいに傾いでおり、根っこは空を向いていた。


(まずいんじゃないの? 完全に逆さになっちゃって。そうだ、蝦蟇が何か言っていた)



〝すべての時代にはユグドラシルの木があるが、逆さになったじゃ。悪が栄えると彦星のそばで引っ繰り返るじゃ〟



 ――彦星がいる証拠! やはり、「殷の王」か「妲己か」その近くに元凶がある。


(何とかしなきゃ。彦星、悪に染められちゃったから、織姫の心が分からないの? あたしは、悪に染まっても、伊織を忘れやしない。自信あるのに)


 白銀なはずのユグドラシルの木は、今や薄灰色に染まり切って、天界の木のように輝いているとは思えなかった。大気も淀んでいるし、どことなく、血の臭いが充満している。


 狐の丸い手をひょいと出して見た。汚れた雑巾に触るような心地だ。紗那はぺたりとユグドラシルの頂点に触れた。白い粘液のような、ナメクジを抓んだような感覚が爪先から頭の天辺までを駆け抜けた。溶けている。気持ちが悪い。と上半身が屋根から傾いた。



「わわ」ズブリ。まるでゼリー状の水面に潜るような感覚で、紗那の体はユグドラシルの中にのめり込んだ。

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