第16話 セカイコードの中で④
朝の光を浴びた城壁は、靜かに照らされていた。サナはふと上を見上げる。
(ユグドラシル.....動いてる)
ユグドラシルの見える高さまで飛び乗った伊織がひょいと足を上げて見せた。
「伊織?」
「震動が。大勢の人間が向かって来る気配がする。野蛮な輩がいるもんだね。紗那、どうした」
「あ、うん……ユグドラシルがね、元に戻ろうとしてる。伊織、この木って彦星の近くにあるはずだよね?」
紗那は勢いよく殷の神殿を振り返った。
何かが引っ掛かって脳裏をざらりと撫で上げる。
何かが。
「ユグドラシルの近くにいるのは、彦星さまだって言ってたよね。でも、彦星が帝辛だったとしたら、織姫はどこ? だってアタシたちのセカイでは、織姫と彦星は片割れ。でも、一緒にはいてはいけない。そうじゃなきゃ、セカイが崩れちゃうんだって聞いてるよ。でも、このセカイはちゃんと在る。なら、二人でも一緒にいられるってことだよね」
「そこを気にするの?」
「気にする! だってもしそうなら、離されている男女の風習や織姫はおかしいってことになるよ。この時代には織姫も彦星も居ない?
そんなはずないと思う」
頭が良いわけじゃない、説明にも限度がある。
(伊織、なんか言って)
我慢して、紗那は伊織の答を待った。しかし、天の邪鬼伊織だ。確信を得るまで、決して口にしない性格だと分かっている。紗那はこの伊織の性格をどうしても好きになれない。それに、伊織の視線は妲己に注がれて続けられているのも癪だ。
(置いていかないで)
一言を言わせて貰えない。
一言が言えない未熟な自分もきらい。
紗那は小さく首を振った。雫が飛び散って伊織の頬まで届いた。
「あたし、帰る」
紗那は無意識に口にしていた。
「伊織は、あたしより、妲己さんがいいみたいだから。セカイ、手にしようって言ったのに! セカイがねじ曲がってるって、曲がってんのは伊織のほうだよ!」
もう止まらない。紗那は噴火の如く、伊織を責めた。
「伊織なんか、この時代で、丸焼きになってりゃいい! セカイを信じない、伊織なんか、置き去りにしてやるからっ……」
狐の手が紗那に触れた。違う、伊織の腕に囚われている。伊織は紗那を後から、抱き締めていた。
(分かる。透き通ってる伊織が、透きとおったわたしをぎゅってしてる。わたしもきっと透き通って、ふたり、大気に溶け合って。あのキスがしたい。空気にふわりと溶けた、優しいキス)
「ダイスキのあのキスして」
ぽそと呟いて、紗那はぎゅっと眼を閉じた。伊織の前髪、少し跳ねた髪が紗那の首筋をくすぐっている。それが嬉しくて、紗那は身じろぎした。上げた顔の頬に涙が零れた。
「伊織と、喧嘩なんかしたくない」
紗那は唇を噛みしめた。
「あの夜はとても伊織が好きになったのに、今はなんだか……秘密ばかりの伊織嫌い」
「説明していなかった」と伊織は紗那のこめかみにキスを贈り、動き始めたユグドラシルを睨んだ。
「妲己さんは天女だ。天と言えば、僕らの天上セカイだ。それならば、妲己さんはね、僕らのセカイからやって来たと考えたほうが自然だ。ユグドラシルの木の側は、時間の流れが違うと蝦蟇が言ってただろ。だから、きっとこのセカイと僕らのセカイの時間の流れは違うんだ。恐らく、こっちのセカイのほうが光の矢の如く早く過ぎる」
伊織はユグドラシルを軽く睨んだ。
「僕にはね、ずっと疑問があった。彦星についてだよ。織姫に比べると、彦星の特殊能力は見えづらい。織姫は願いを受け止め、天を浄化する役割だろ。では彦星の特殊能力はなんだ。それこそが、要な気がする。僕が確かめるしかない」
伊織は会話を打ちきって、表情を険しくした。憎悪の渦になり、進軍してきた怒りの軍団が首都朝歌の正門を突き破ろうとしている瞬間だ。天界では見た覚えのない〝憎悪〟の闇が吹き荒れている。まるで黒の珠だ。たくさんの黒が大気を埋め尽くしている。その黒い闇が咆哮し次元を揺らし始めた。
「ユグドラシルへ急ごう! 境目は来る!」
紗那は身震いをしては、足を止めた。伊織に手を引かれてはまた走った。大気のユグドラシルの木は黒ずんで、今にも地上に触れそうなほど、落ち始めていた。
「随分遠くに行っちゃってる。前は屋根から飛べたのにな」
伊織の腕が紗那の体をひょいとすくい上げるように持ち上げた。
「僕がこのままきみを抱いて飛ぶから。じっとしてるんだ、紗那」
紗那はきゅるりと瞳を伊織に向けた。ニコッと笑う伊織の眼にもじもじしたくなる。伊織は紗那を抱き上げたまま、屋根を蹴って次々渡ってゆく。
風が気持ちいい。こんな跳躍力は知らない。二人で空を飛んでいるみたいだ。
「さっきの続き。妲己が彦星だ。王のほうが織姫なんだ」
「ええ?」
「何を驚く。織姫と彦星は概念なんだよ。男女など関係がない高さにあるんだ」
――きゅ。こっそり紗那は伊織の首に抱きつくと、熱い頬をごまかすように訊いた。
「帝辛さまのほうが織姫って本当? だって、男だよ」
「ユグドラシルは妲己の近くに常に見た。思い出して。彦星の側にユグドラシルは存在する。僕らが接触するは、同じセカイの妲己さんのほうだ。ああ、あんなに近くで胸に顔、埋めていたのに! 女性の乳はなんという罪作りだ」
紗那は抱き上げられたまま、片足で伊織の腹を蹴った。蹴られた伊織は恥ずかしそうに笑う。伊織の腕の力が強くなった。
「闇の大気の強さが増している。次元が渦捲いている。巻き込まれれば紗那も僕もどこかに消える」
紫と灰色のマーブルの大気の中、ユグドラシルの木は紫から黒へと変わってゆく。
「あんなに綺麗だったのに――これも彦星の悪意のせい」
「紗那、下を見るなっ!」
妲己の首が飛んだ瞬間だった。二人の前を横切るごとく、美しき黒髪は空中に漂い、羽衣は千々に引き裂かれ、炎に消えた。
「帝辛さま!」民衆に追い立てられた帝辛は、ヨロヨロと妲己の首を抱き、剣を抜いた。長剣を翳した帝辛に民衆が引いた。声のない悲鳴。帝辛は闇雲に長剣を振り回した。
「空気が、殷全体が、セカイが揺れてる」
たくさんの血を流した殷の街は、震動していた。燃えさかる炎、焼け落ちる美しき神殿は数多の命を呑み込み、セカイの輪郭を梳かした一つの呪場と成り果てる。
燃えさかる最後の階段の一番上に、帝辛はいた。妲己の首を抱いて、ぼうっと空を見上げている。
(この角度だ。天上セカイで最初に見た、殷のシーン!)
あの時帝辛は空を見上げていたのではなかった。空中に浮かぶ木と、寄り添うふたりを見て、かつての恋人との寄り添った過去を想っていたのだ。
一歩も動かない強い瞳と、伊織の瞳がかち合った。
「こっちを見てる……強い瞳――織姫の、紅蓮の瞳だ……なぜ、僕を見る……僕たちは羨ましそうな眼で見るものじゃない……僕は、怖ろしい目的を抱えているんだ……見るな……」
(伊織?)伊織の心に巣喰った〝ウェルド〟という名の闇は具現化していく。
「来る」伊織が再び紗那を抱き寄せた。ゴゴゴゴゴ……殷の居城が持ち上がり始めた。
「国全体が!」
「違う、土壌が崩れ、擂り鉢状に近づいているんだ……全てを飲み込む全能神の墓場だ!」
砂の巨城はまさに砂上の楼閣の文字通りに大地に吸い込まれ、けたたましい土砂が窪んだ中央に向かって雪崩れの如く崩れ落ちた。
蒼空は負けずに稲妻の渦を巻き、雲は重く嘶く。セカイの終わりを彷彿とさせるが如くの雷雨が通り過ぎる。まるで狙い撃ちをするかの稲光と稲妻の下、人々は剣を振り上げ、かつての王を狙った。たくさんの剣を背中に突き立てられた帝辛は、立て膝のまま、妲己の首を抱き締めて動かなくなった。
最後に一つの首が翔んで砂場に堕ちた。
地面の唸りが止んだ。
「終わったの……」大気に響き渡る怨みの声は耳を塞いでも塞ぎきれなかった。
「まだだ。阿鼻叫喚が集まっている! 帝辛の抱いている首、妲己が呼んでいる!」
死んだはずの帝辛の咆吼。
「なんて執念だよ.....あれが、織姫....!」
四肢をかき消して、蛇になって飛翔した。黒くうねった四肢は長く、胴体に足はない。蛇の大気は地面を畝ち、大地を持ち上げた。まるで天に還るかの如く。無数の手と歯が見えた。殷虗を破壊して、たいぼんの炎ごと大気を割り――。
2人の合間を突き抜けようとその邪悪な頭部をまっすぐに向けて上昇を始めた。
「こっち、来る!」
「絶対に離れるなよ!」
大きな黒の大気は、紗那と伊織を透過して、天に消えた。
「あいつ、僕らを媒介にして呪場ごと僕らのセカイに来たんだ……! 次元を飛び越えて……信じられない……!」
「珠散らかしてった蛇! あたしたち、見たよね」
「この次元から、僕らの天上セカイに飛んできたなんて……信じられないが、確かにワープしていた」
伊織は蛇の突き抜けた空を見上げていた。地上は立ちのぼる赤い蒸気で全く見えない。巨大な磁場は大きく傾ぎ、空洞になって停止した。ユグドラシルの木はすっかり蒸発し、どんなに眼を凝らしても、もう見えなかった。
「彦星が、死したからかな。近くにあるはずって蝦蟇が……」紗那は恐る恐る聞いてみた。
どうやらめまぐるしく流れた状況についていけていないらしく、ひたすら瞬きを繰り返しているだけ。
伊織は煤で汚れた頬を撫でてくれて手を掴んで引き寄せてくれた。
「紗那、ちょっと付き合うんだ。時間があるならこのセカイを調べたい。あの蛇はもう居ない。調べるなら今しかない」
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