第11話 過去も未来も繋げる樹木

「黙れ黙れ黙れ! のんびり蝦蟇は昼寝してりゃいいんだよ! その頭でっかちの蝦蟇で」


 蝦蟇と仲間らしい龍仙人は喧々囂々の言い合いを始めた。飛び出た犬歯に、伸ばした反り返った爪、赤い眼に、千切れた蝙蝠の翼の残骸。栗鼠の尻尾は黒い龍のように背中まで丸く穿っている。


 龍にしては変わった容姿をしている。


「大義の木を吹っ飛ばすない。ぼんくらめ。飛び散らせてどうするんじゃ」


 蝦蟇こと蒼杜鵑が手を翳すと貴人が吹っ飛ばしたはずのユグドラシルは元の形に併合し、元通りに聳えて揺れた。心で視る、心で視る、と呟いて伊織を視る。


 ふうっとした不思議な感覚が駆け抜けた。


 あたたかい陽だまりの


〝何か〟。


 ……伊織が懐かしい。


 ……へんな感じ。



(なんだろ。いま、フワッとしたんだけど)


「空が次々変わっている」

「ユグドラシルの側の時間が早いんじゃ。季節も、時も、瞬間で過ぎゆく。歴史の時空の木じゃからな」


 空は急速回転。数重の光の帯も姿を現し、白い夜が訪れ。昼と夜が早回しされていた。


「ユグドラシルは時間の束縛から解放された場所だ。重力・引力が違う。過去も未来も繋げられるんじゃ。我らはセフィロトと呼ぶ仙人の樹木だ。貴人。時を航る龍のおぬしの力が要るんじゃ」


 貴人がギヌロと龍眼で蝦蟇を睨んだ。

 蝦蟇は杖を高く振り上げた。


「おのれらには真実を見る権利がある。協力はこの貴人がするから、セカイを見て来るんじゃ」


 むすっと黙り込んだ貴人はユグドラシルの木々に飛び乗って知らん顔をした。


「困ったヤツじゃ……織姫? おまえ何をやっている」

「あの木、登りやすそうだと思って」


 紗那は左足を大きく引いた。伊織がやれやれと腕組みして眼を閉じた。


「どうぞ。確かにきみの足なら登れそうだ。いっておいで」

「まさか……! 霊木に登る気じゃあるまいな! 触れるは危険じゃ。うおっ」


 蝦蟇の頭でまず弾みをつけて、伊織の差し出した両手を頼って蹴って、伊織の腕で投げてもらい、空中に飛び上がった。透けるユグドラシルにしっかりと掴まった。


 ――掴める! 大丈夫。心で見えている証拠だ。心を強くすれば、ほら。


「何じゃ! おてんば織姫が! 儂の頭を飛び台にすな!」


 枝を掴み、懸垂の要領で体勢を整えて、紗那は大声を張り上げた。


「伊織、任せて! あのぼんくら引き摺り降ろすよ! 協力して貰おう」


 紗那は告げると、一番上に座って、見下ろしている貴人を見上げる。


(心の眼で見えなくなれば、ユグドラシルは分からなくなる。心で、感じて、触れる。眼や耳は閉じて、心だけでいい)


 慎重に腕を伸ばした。ぶら下がって懸垂のようにして、一つ一つの枝を丁寧に引き寄せる。ユグドラシルの木は揺れ動き、ゆっくりと浮かび上がる。


 ユグドラシルの木はぐんぐん上昇して行った。貴人がやっているのか。


 ――落ちたら、終わり。紗那はぎゅっと眼を閉じ、次の枝に手をかけた。よいしょ、と昇ると、空が割れている風景が見えて来た。


 大きく割れた大気は、ぽっかりと扉のように裂け目を出現させていた。雲霞の彼方。空間の向こうは内側からくすんだ色に染められている。その奥には何か大きな生きものが蠢いている。


「なんだ、あれ…… 大きな、もう一つのセカイがセカイの向こうに……」


 まるで隠されるように、国、いや、異次元が潜んでいるが見えた。驚きで、腕を枝に引っかけたまま、紗那は空の裂け目を見詰めた。黒く霞んだ龍の大きな口。偉大なる神を祭る巨大祭壇に、無数の階段。蜻蛉のような都と、城壁を知っている。あの場所は――。


「おい、邪念は捨てろ! 堕ちる!」


 貴人の声にはっと気付くも遅く、ユグドラシルはあっと言う間に空間に入り込んでしまった。掴む枝が見えなくなった。


「きゃあああああ――っ!」




 ――落――ち――る―― ! 



 思った瞬間、掌が耀り始めた。驚いた貴人が身じろぎしている前で、ふわり、と何かに抱き留められた。聞こえるは大気を掻き混ぜるような気高い羽ばたきの音だ。天馬に乗った伊織がしっかりと紗那を抱き留めていた。


「間一髪。最初からミカエルで来れば良かったんだ。さすがはヴァルキュリーの天馬だ。強く、しなやかで動じない」


「伊織~~~~こ、恐かった」


「うんうん、彦星に逢う前に死んだら意味がないよ。コレに懲りて、無茶はするんじゃない。ほら、もう大丈夫だ」


 紗那はぶるぶると頭を振って、ゆらゆらと揺れたままのユグドラシルの木々を駆け上る天馬と、手綱を掴む伊織を交互に見詰めた。


「慣れると眼に焼き付くんだな。すごいな。歴史の樹木か。幾星霜の歴史を詰め込んで、セカイのあらゆる有史の」


「面倒くさい話は後じゃ。おぬし、先程手が光った。まさか「発芽」したんじゃろうか」


 蝦蟇の言葉と同時に、貴人が頂点からボロ翼を動かして降りて来た。紗那の手を掴んだ。


「あァ、光った。そいつ、見たことがある。種子だ。仙人の種の目覚めだ」

「植物みたいだな。蝦蟇、あのセカイはなんだ。揺らめいているが見える」

「見えるか。織姫、おぬしにも?」

「見えるよ。くっきりと」


 ユグドラシルの要領で視界を閉ざす感覚で視えるセカイ。紗那は頷いた。捲れ上がった大気の向こうには揺らめく古代世界の影。ユグドラシルに飛び移った蝦蟇が杖を翳した。


「歴史に捨てられた時代が眠る場所。すべての時代にはユグドラシルがあるが、逆さになったじゃ。悪が栄えると彦星のそばで引っ繰り返るじゃ」


「彦星は悪なのか。その言い方ではまるで。では、彦星の役割は」


 伊織の問いには蝦蟇は答えず、くるりと背中を向けた。ぼん、と蒼杜鵑の青年姿に戻って、杖でセカイをまっしぐらに指した。雲を押し上げた大気の彼方から黒い気が押し寄せている。


「あれこそが、歴史至上最悪であり、最古の地上セカイ・コード『古代中国・殷』。ユグドラシルはあの時代から呪いを受けている。あれがあの時代の彦星と思われる」


 遠くのセカイの玉座に座っていた青年がすっくと立った。手には一つの首がある。首の顔は織姫にそっくりだった。男は織姫の首を抱え、振り返り、咆吼を繰り返していた。


「人は塩の柱になっても、悪意には勝てん生きものじゃ。ああして彦星は何度も歴史の悪夢で織姫を探し続ける運命じゃ。彦星と織姫が結ばれたら、このセカイは終わる。二人を一緒にはできない何か。それを見て、知ることじゃ」


 伊織が顔を上げた。紗那は伊織を真っ直ぐに見詰めた。


「あのセカイに飛び込めって言っているの、蝦蟇」


 蝦蟇は頷いた。紗那は迷いのない一言を口にした。


「彦星に織姫の心を届けるなら、彦星に逢いに行くしかない。行こう、伊織」

「了解。天馬ミカエル! 空間の裂け目へ向かえ!」


 地上で〝天使の階段〟と呼ばれる光が放射状に輝く。二人を乗せた天馬ミカエルは躊躇せずに飛び込んだ。貴人が空間を押しとどめ、裂け目をぐいと引き裂いた。


「俺の龍の眼は呪を通すんだ。入口だ。行け」


 貴人を通り越し、ユグドラシルに導かれて。龍の引き裂いた裂け目はちょうど馬が通れる大きさまで捲れていた。暴風が押し寄せる。



「わ、すごい風!」

「紗那ちゃん、頭下げて。じん旋風だよ。時空の歪みだ。僕の腕に捕まれ。通り抜けるよ!」



(こうなる運命だったのだろう)



「伊織、胸が痛いよ、何を叫んでいるんだよ」



(妾と、あなたは――なぜ――……)


 怖ろしい加圧の中、後悔の声が響く。伊織は耳を押さえた紗那の耳に息を吹き込んだ。


 ふわり、と伊織の腕が紗那に覆い被さった。


 ――空間を、抜ける――……! 


 四肢が軋んだ。


「異次元だから気圧が違うんだ。大丈夫、大きく息を吸って、唾を飲むんだ。僕はここにいる」

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