第2話 願いと再会

*1*


 プリズムに輝く七色銀河海に地上の願いは珠になって浮かび上がる。ねがいは水晶のような球体の形状をしていて、赤、黄色、蒼、緑、オレンジ、紫、黒と流し込まれたような光が特徴的な宝玉だ。しかし、天上の銀河海には黒の珠は上がってこない。

   

 黒だけは一段下にあるアストラル階層監査組織「黄泉太宰府」ー通称警察機構ウェルドーが回収してしまうからだ。


 黒は穢れ。織姫さまが叶えてはいけない願いだから、避ける理由だと学んだ記憶がある。


(船がふわりと浮き始めた)


 浅瀬の景色はますます眩さを増し、銀河の中心の樹林へと変貌する。天上セカイを悠々と流れる雄大な七色銀河海を渡ると、いよいよ織姫さまが統治するミズガルズの心臓部である織姫星宮塔が見えて来る。


 次元研究者ダンテによると、セカイは横から見ると、七層。第一層にあたる天上セカイに来るには、この七色銀河海を渡り、星の船で宝玉の霧の中を進まなければならない。


 予備校生の集まるミドガルズと織姫のいる高次元星宮塔を繋ぐ虹の橋が見えて来ると、甲板はより賑やかになった。星の船は迂回して、ゆっくりと橋に差し掛かる。霧に塗れ、揺れる大気はかつて地上が求めた天国の大気だろうか。


 穢れ一つない、すがすがしい空気。


 ――と言っても、ここは天国ではなく、天上セカイ。地上とは別の層にあたる場所。女子は織姫を目指し、男子は彦星を目指す――のではなく、織姫の保護に全力を尽くす役割だ。


 ねがいがセカイを支えている幻想のセカイ。――と、願いの光珠がひとつ、ぽろんと紗那の手に落ちてきた。


(ふん、まあ、綺麗っちゃ綺麗だけど……あたしの願いは、こんな珠じゃ叶わない)


 言ってしまっていいかな。

 願っちゃっていいのかな。

 やめよう。叶わないと分かっている。


(あたしは、伊織とずっと一緒にいつまでもいたい……なんて無意味だもんね)


 伺うと、発着の準備で女性騎士――ヴァルキュリー――たちが大わらわになっていた。引率の紗那は時間を持て余し始めて、流れる銀河の美しさにホダされて呟く。


「このセカイ、欲しいな」


「そうだね。紗那、二人で世界を手にしようか」


 声に振り返ると、船首楼閣の上、林檎狩りの如く七色の珠を山にした籠の横で、笑い声を上げながら独り言を聞いていた不届き者を発見。彼こそが、紗那の想い人の楚伊織である。


(やっぱり、いた! 怖れ知らずの幼なじみ! ……なんだけど、嬉しいし)


「伊織! ここ、女子織姫船なんですけど!」


 伊織は軽く片眼を瞑って見せた。


「特別に許可を貰った。何しろ、僕の織姫と逢える一年に一度のチャンスだから」


(ああ、僕の織姫ね……織姫大好き独占欲は健在か。このムッツリスケベ)


 逢いたかった気持ちを萎ませられた腹いせに腹の内で軽口叩いた。


「かごが軽そうだな」


 伊織はひょいと首を伸ばして紗那の空っぽの籠を覗き込む。「からっぽ」の言葉にささっと籠を隠して、飛び降りて来た伊織に手早く籠を押さえられた。同時に視線が絡んで、紗那はばっと顔を背けた。


 逢いたいと胸を焦がすわりには、実際にいたらいたで落ち着かなくなる。


(これだよ……素直じゃない。逢いたいって思ってたくせに逸らすとか。自分が分からないな)


「僕に逢いたくなかった? わざわざ危険を顧みずに逢いに来たんだけど」


 紗那の心中いざ知らずの伊織は悄気た素振りなんかをしてみせる。


「僕は紗那に逢いたかったよ?」


 直球+素直+純情な台詞に「きゅうん」と胸が高鳴ったところで、「僕は逢うためなら危険を冒すよ」とまた、顔に似合わない問題発言に危険を感じた。


 伊織にそういう危険な部分があるは知っている。結果、「伊織、背が伸びたね」と誤魔化してみる。伊織は紗那の思惑を読み取ったように「クク」と笑いを噛み締めて見せた。


「男子はみるみる変わるって。兄貴もそうだったし。これから僕らは大人になっていくんだ」


 ――大人の言葉にしっくりとこない。伊織だけが大人になってしまうのが恐い。ずっと手を繋いでこの船に乗りたかった。大人になんかならなくていいから、ずっと一緒にいたかった。



(願いなんか、叶わない。このセカイ、嫌いだ)とは言えずに唇を尖らせた紗那に対して、伊織は肩を竦めて見せた。


「こうしてる間にも一日が終わるよ。今日は好きな人に逢って良い日なんだから、湿気た話は嫌だ。遠距離恋愛にも程がある。ルールを壊せるなら何だってやる。紗那が願うなら、この船を壊して織姫へのお届け物自体を無くせば、一緒にいられるかな」


(うっ)にこにことしてはいるが、眼は本気の色を醸し出している。「わかったよっ! 逢いたかった! これでいい?」紗那は照れ隠しにぶっきらぼうに告げて、ちらっと伊織を見やる。


「ありがとう」しれっと飛んだ御礼の言葉にうー、と涙目。


(でも、確かに伊織の言う通り。一年に一度の貴重な時間を「セカイが嫌い」で終わらせたら、五〇〇日(セカイの一年基準)のうち四九九日を後悔で過ごす嵌めになるから、やめよう。美しいセカイに、ドロドロの下心は必要ないよね)


 にこにこしている伊織、嫌いじゃないし。紗那は気を取り直して伊織に向いた。


「ところで、伊織」


 甲板の手すりにぴょこんと飛び乗ると、銀河海の海軟風が、白い牙の如く、漣を呼び起こした。座った紗那の前に、伊織もまた腕を広げて紗那を挟み込み、銀河に心を遊ばせている。


(挟まれると安心する)紗那は銀河を振り返って大好きな伊織に問うた。


「さっき、彦星云々の話、してたの伊織だよね?」


 伊織は「し」と口元にひとさし指を当てた。


「彦星の話は、ウェルドでもタブーだ。いつか探ってみたいとは思っているけどな」


 ウェルドとは、七層のうち、最下層を管理する機関『黄泉太宰府』を意味する愛称だ。最下層で何か行われているのかは知る術はないが、黄泉太宰府の監査一族である伊織は何やら秘密を知っているようだ。


「ねえ、何か知ってるなら、紗那にも教えて」


「さすがの僕も、織姫の秘密は手には出来ないなぁ。機密重要事項だ。兄貴にしばかれる」


 紗那は伊織の兄を思い浮かべた。軍人の冷たい態度に、伊織は怯えているを知っている。伊織は元々野心はないから司令長官の兄なんて苦しいだろうな……と。ちょっと待て?


(さっき一緒にセカイを手にしようって言ってた。冗談かな)


 伊織の綺麗な水晶の如き瞳が、紗那を捕らえた。意志の強い眼で「天界を手にするは僕だ」と告げた。


「そんな野心いつ持ったの?」


 伊織は澄んだ眼にセカイを映し、しっかりとした横顔を向けて、まっすぐに海原を見る。


「ずっとだよ、幼少から思っていた。それを野心と呼ぶべきだと紗那から教わった」

「野心……うん、だってあたし、このセカイが知りたいし、欲しいもん」


 伊織は「野心家同士なわけか」と秘密の約束のふりか、小指をちょいちょい動かして、甲板に寄り掛かった。小指を組み合わせたところで、船は迂回を終え、一目散に珊瑚に彩られた波止場に進み始めた。


「あたしもこのセカイの秘密、知りたい。教えてね」


「もちろん」伊織からの額へのキスを受けて、ぽわ。額から変な蒸気が噴き出した。「えへへ」と顔をすり寄せたところで、船はと見ると、大きな黄金の珊瑚の門をくぐり抜け、巨大な橋を渡り終えた。水面を搔き分け、輝かしい織姫星宮塔への海路へと更に進む。


 海は広く、大嵐はなく、織姫星宮塔への海路は一本で大層穏やかだ。


「この辺りはやっぱり絶景だ。地上の願いがこうも美しいセカイを作るなんてね。この珠、一つ一つにどんな思いが込められているのか。知るのは織姫さまだけだけど……例えばこの願い。覗いたら見えるのかな」


「願いの覗き見? やめようよ。怒られるよ」

「怒られるのは慣れてる。残念。僕には見えないな」


 窘められた伊織は願いの光珠をそっと手で弾ませた。オレンジ色に輝く明るい願い。多分、今の紗那の弾む心を染めればきっと、元気一杯のオレンジになる。


「この願いの光珠、わたしのだったりして」伊織はきょと、と眼を向けて、すぐに「こっちでしょ」と桃色の願いの光を弾ませて、また紗那を見詰めた。


「ええ? そんな桃色嫌だよ。あからさますぎる。それに、わたし、願ってないし」

「なんで?」


(なんでって……)紗那は口を噤んだ。願ったところで、どうせセカイの仕組みには勝てない。なら、ねがいなど願い下げだ。


「紗那ちゃん、逢いたかったの一言くらい自分から言えるように……――なんだ?」


 大切な(紗那にとっては有り難くない)会話の途中で、伊織はまず、周辺の異変に気が付いた。(最後まで言ってからにしてよ!)しかし文句を言うタイミングを逃し、見れば女子たちが塊になってしきりに蒼空を見上げ始めているに紗那も気付く。幼少の子供の面倒は紗那たちの仕事だ。当然の顔で子供たちを伺った。


「どうしたの? みんなで固まって」


「ねえ、紗那お姉さま。下からいっぱい真っ黒がやって来てるの」


 目ざとい女の子の一人が星の船の真下から昇ってくる光に気付いた様子。紗那と伊織も駆けつけた。闇が広がるように、海を浸蝕している黒い渦。染みこむように横に広がり始めている。


「なにあれ……海を浅黒く染めて上がって来てる。気持ち悪い色」

「黒だ……」伊織が喉を鳴らす。

「ウェルド監査組織の連中、何をやってるんだ。逃がしたか」


「逃がした?」紗那に軽く頷いて、伊織は手すりから真下を覗き込みながら、説明を投げる。


「下層の役目だよ。織姫に届けてはならない願いの光珠を管理しているんだ。稀に上がってしまうらしいんだけど。黒の珠はどろどろに溶けているから、輝かないが特徴でね。普段は処理場に持って行かれているはずなんだ」


 会話の合間も、船は小刻みに揺れ始めた。子供達が震え上がりながら、甲板の階段にしがみついた。


「下層は警察機構の黄泉太宰府ウェルド。セカイのずっと下方には願いを放り投げて知らん顔の地上の人たちが住む世界―アスガルド―がある。織姫講義でやったよね?」


「あ、うん。聞いた覚えがある。ねえ、なんか、凄いパワー感じるんだけど」


 伊織は無言で、下方の雲の影と銀河の水底を見据えていた。


「ねえ、伊織」呼んだところだった。伊織が素早い動作で紗那に覆い被さった。


「紗那、危ない! 黒い光に触れてはいけない! 絶対にだ!」声と同時に衝撃波が船全体を揺らしに掛かった。肌がびりびりと震える。「く……」と伊織の服の袖が裂けて男子の肌が見え隠れし始めた。ビリビリとした緊張感が僅かに止み、ほ、としたが束の間。伊織の叫びで、甲板には忽ち緊張感が漲り始めた。



「上昇気流に気をつけろ! 何か来るぞ!」



 たちまち空気が割れるような、弛緩するような重みを帯びて蒼空が渦を巻き始めた。


 星船は左右に大きく震動させられ、黒い塊は銀河海を突き抜けようとぐんぐんと上がってくる。海は蟻地獄の巣のように窪み、願いの光珠が水飛沫の如く、はじけ飛んだ。


 目を瞠る紗那の前を、堂々と遮ったは黒の鱗を吐き散らした大きな蛇だった。蛇行してくる。蛇が動く度に黒水晶の欠片が舞い散った。蛇は叫びを上げ、大気を震わせて、身を捻っては呻きを上げ、セカイを突き抜けて、天上に昇っていった。


「はぐれ龍……でもなかったな……行ったみたいだ……もう大丈夫」


 空気は耐えず震動していたが、やがて霧が霽れて来た。甲板は黒の珠だらけになっていた。


「珠、全滅……」伊織の告げた通り、集めた願いの光珠は黒龍の食い荒らされてものの無惨に光を失い、籠のなかはおろか、あれほど煌めいていた銀河にも何一つ輝ける願いは遺っていなかった。


 蛇が撒き散らした願いの珠は、怏々にして砕けてしまった。美しかった光も、墓石のように色を失っている。


 突如の黒光の衝撃で星の船の甲板は大揺れになった。子供たちのせっかく掬った珠が落ちてしまったとの泣き声の大合唱が船を揺らしている。「大丈夫? 紗那ちゃん」「あ、うん」伊織の腕に囲まれ、紗那はおずおずと伊織を見上げた。


 こんな事態でもなければ、伊織に抱き締められるチャンスなどない。(蛇に感謝)なんてまた怒られそうな心情をそっと隠して、鼓動に頬を寄せた。


(伊織、あったかい……。知らなかった。男の子って体温低いけど、ほんのりと心を温めるんだ)


 感覚に驚いている紗那に構わず、伊織は今度は天上に目線を上げ、眼を凝らしている。


「まっしぐらに天上へ吸い込まれた様子だ。黒光する蛇なんて初めて見た。どこから来たんだ、あんなの」


「大きかったね。あれ、下層から来たのかな」


「まさか。あんなデカイ蛇飼う場所なんてないから……まあ、僕は感謝しているけど。紗那が抱きついてくるなんてまさに星迎の夜だ」


 正気に戻って紗那は言葉の途中、伊織の腕からササッと逃げ出した。時折伊織はぎくりとするほど、紗那の心を言い当てる。


「ざーんねん」と残念そうでもなさそうな会話のあと、伊織はにやにやした。


「思いっきり抱き締めたから分かったんだけど。紗那ちゃん、そのくらいの膨らみがいいよ」

(膨らみ?)ぽよ、とした最近のふたつの膨らみに気付いて、伊織の謂わんとする事項と視線に気付いた。「もういい!」と背中を向けた。




 騒動の中、星の船は元通りに水平に戻り、虹の橋を渡り始めた。


「もうすぐ織姫さまのおわす星宮塔だ。見て、また、ねがいの光珠、増えて来たね」


 ねがいはひっきりなしに降りてくる。最終地点の巨大水晶が置かれた祭壇が見えて来た。


「さあ、少しでも多くの願いを集めよう。織姫さまにも事情は伝わっているだろう。あの蛇は兄貴たちが責任をもって検分するだろうから。別次元から来たように見えたけどな」

「伊織、のぞき込まないほうがいいよ」

「わ」


 言わんこっちゃない。伊織は船から落ちそうになって、紗那は慌てて伊織の帯紐を掴んだ。後でちらっと見えた胸板にびっくりして手を放してしまう。


「おっと」


 伊織は紗那に抱き着く感覚で、バランスを整えた。


「わあ、お姉ちゃん、大丈夫?」


 女性と間違えられるほどの容姿を持った少年が、本当に紗那の会いたい人だとはおてんとうさまも見抜けないだろう。


(私には、これがいる。織姫さまには一年に一度、逢える。でも、彦星さまとは? 天上セカイには必要なかったのかな。織姫さまはどう考えているんだろう。星迎の夜はかつて二人とも揃っていたんじゃないのかな)


 織姫になったら、ひとりぼっちで生きるのだろうか?


 一年に一度しか伊織とは逢えなくなった自分の寂しい境遇と重なって、紗那はしょんぼりと俯いた。

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