第3話 継承-幼い織姫と幼い彦星-

 天上世界の星宮塔は、代々選ばれた織姫のための、一大楽園セカイである。足元からは上空の空気にさらされた冷涼な蒸気が噴き上がり、濡れた朝露の如き輝きを思う存分撒き散らす。


 銀の針葉樹林には数々の宝玉が生り、美しく揺れている。隣には、青色の薔薇が濡れて咲き誇る。銀粉が降りかかった宮殿には金の燕が飛び交っていた。塔の前には銀の狐の像がふたつ。見とれるほどの、どこか懐かしさを醸し出す、不思議な光景だ。


「こんちは」と狐に魅入っている紗那の横で、「あと二回か」と伊織がぼやいた。

「二回?」

「織姫に逢いにこられる回数だよ。僕はもう十八周期を超えたから。いくらヴェルド一族でも許可は今年までなんだってさ」


 白光が空に開け放たれた。白を煮詰めた光が飛び込んでくる。星宮塔が白銀で出来ている影響で、反射し合って蒼空まで白く輝かせている。


 またひとつ光珠が星宮塔まで流れて来た。それは透きとおり、色々に染められて、銀河に浮かぶ。光珠は織姫の手で、巨大な祭壇に置かれた水晶に溶け込んでいく。


「織姫さま、退屈しないのかな。ここで延々水晶に珠入れてるだけで」


「神々しいね……美しいよ。ほっそりした手からすいっと水晶に」


 正反対の伊織の恍惚満杯の呟きに、紗那はムスっとなった。いくら美しい風景だと思っていても、伊織が褒め称えると、急に色褪せて見えて来るのはなぜ。織姫に憧れる男子は多いから、普通の話かも知れない。


しかし、紗那が彦星に憧れていると言ったら、そんな憧れはおかしいとお説教するくせに。


 ――この差がやっぱり気に掛かる。


「ねえ、伊織。彦星さまって」懲りずに聴きだそうとしたところで、伊織は足を止めた。


「水晶の前に織姫さまの姿がないな」


 伊織は小さく腕組みをし、護衛のヴァルキュリーの一人に爪先を向けた。子供たちは水晶の前に珠の入った籠を置いて、噴水の前を飛び回っている。


「織姫さまのお姿が見えませんが」


「織姫は、沐浴中でございますよ」


「ふうん」伊織は何やら物騒を思いついた表情になった。唇を耳元に寄せた。


「織姫の水浴び。天界至上で誰も見た記憶がないと思うんだ。誰にも出来ない事項を成し遂げてこそ、真の覇者だと思わないか」


(またそういう破天荒な台詞)伊織は容姿は綺麗なのに実は腹が真っ黒と来た。

「え? ねえ、伊織。前から思っていたけど……その容姿と、性格のギャップなんとかしなよ」


「作戦を練ろう。何しろ織姫を護る守護戦士は強い。だが、僕は知っているよ。織姫の戦士たちはウェルドと仲が悪いんだ。使わない手はないね……見ていて、紗那ちゃん」


 ――聞いてやしない。


「あ、凄い勢いで、天馬が来ますよ! ウェルドが先程の蛇を追いかけて来たそうです」


 伊織の声に、女戦士たちが空を振り仰いだ。


「ウェルドの連中だと! 全員戦闘態勢だ!」


 戦士たちは忽ち、剣を抜き、天馬に乗って全員空に消えた。


「さすが素直な織姫の戦士。さあ、行こう。これで邪魔はいなくなった。時代は常に刺激を求める。新人類は新人類を以て制す、だ」


「何やってんの。輝ける黄泉太宰府のウェルド一族の御曹司のくせに」


「御曹司? そんなイイモンじゃないよ」とゆったりと伊織は笑ったが、優しそうな笑顔も、形振り構わずも、織姫をのぞきたい一心だと思うと、やっぱり苛つき虫を噛み締めたくなった。


 宮殿内部は想像しているよりも質素で、光を喪っていた。紗那は足を止めた。

 伊織はのんびりと、衣裳を揺らして歩いて来て、追いついた。

 宮殿の想像していた神々しさはない。これではまるで取り立てに遭った差押えの屋敷だ。伊織も同じように鼻の頭に皺を寄せている。

「酷いね。荒れ放題。織姫さま、ご病気なのかな。いつもは明るくて温かいんだけど」


「諦めようよ。そもそもここは広すぎる」


 伊織の持つ、流氷の如き冷たい視線を喰らって、紗那は唇を尖らせた。


「面白くない。伊織が織姫さま大好きだって知ってるよ。でも、あたしには面白くないの! 理由はわからないから、伊織、教えてよ」


「初耳だよ、それは。……何か踏んだ」


 からかう気だった伊織が足を上げた。「ペレットだ」チャリチャリとしたカケラが散らばっている。緊張が走った。「織姫!」呼び捨てにして伊織は紗那の手を引き、一目散に宮殿最奥に駆け込もうとした。

「伊織、そんなに焦って駆け込むな! すけこまし!」

「違う! 嫌な予感がするんだ! この散らばってるペレット。これは願いの残骸だよ!」

「残骸って」

「下層で見た覚えがある。ねがいを放置すると、やがて骨のように石灰化して風化するんだ。すると、ねがいは二度と還らない闇のペレットに変わる」


 ぞっとして足元の願いの残骸を踏みしめる。ペレットはチャリチャリと不快な音を立てた。あちこちに散らばっている。

「いくつぐらいあるんだろう」

会話の途中、天上から光が降り注いだ。巻き貝のようになっている天井が初めて見える。青く透き通り、白く輝く。ここは確かに美しき織姫のための海を模した宮殿だ。全てが織姫がため。貝殻の暖簾や、珊瑚からの清々しい空気。紗那は圧倒されて周辺を見回し、背中をギクリとさせた。


 ――殺気! 見上げた天上には桃色のたなびく髪が在った。しなやかな腰付き。何より天女を思わせる幾重にも重なった単と、周りに巻き付いたフワフワの羽衣。

 まるで水面に飛び込む魚の如く、ふわりと羽衣が宙に舞った。「織姫さま!」呼ばれた織姫はふっと振り返った。「見られたか」と呟くと、願いの光珠を爪先で蹴り上げた。


 願いの珠を手に弾ませると織姫はにっこり笑った。ぐしゃ。不快音を立て、広げた手から願いの残骸が落ちる。宮殿に落ちていたペレットの正体だ。願いの珠を織姫は悉く握りつぶした。


 伊織は早速奥ゆかしそうな垂れ目をちらちらと攻撃の色に染めてゆく。


「あんた、織姫さまじゃないね……織姫さまは願いを握りつぶしたり蹴ったりしない」


 織姫は伊織になど取り合わず、去って行った。


「伊織! あれが皆の憧れの織姫? 願いを潰してんだよ? 織姫様が!」


 伊織は返答せず完全思考モードだ。(ちょっと、聞いてんの!)文句を言いかけたところで伺うと、細い螺旋階段の手すりを握りしめ、また毅然とした横顔を向けている。


「確かめよう。あれは織姫なんかじゃない。織姫さまは沐浴しているはずだろう」


 伊織は険しい顔のまま、クールに気取っているが、どうも他の意図が見えそうな気がしてならない。螺旋階段を上がり、足を止めた。


「予感的中……織姫さま! 織姫さま!」


 階段の途中で、先程の《織姫》と違わぬ同じ髪をたなびかせて、織姫は倒れていた。一部衣服を剥がされて、髪は無惨に切られている箇所もある。


 ――死んでる!


「きゃああ」

「叫ぶな! 人が来る!」


 伊織に再び手を掴まれて、紗那は頑張って恐怖を呑み込んだ。涙目で見ると、「良く出来ました」とばかりに伊織は小さく頷き、織姫に屈み込んだ。首に手を翳して、ゆっくりと首に手を当てて紗那を振り返った。


「良かった。……生きてる。織姫さま、判りますか。お邪魔してすみません」


 しかし焦点が合っていない。見れば胸元には大きな血の染み。「医療班を呼ばないと……」紗那も屈み込んだ。ふと織姫が伊織の手を握りしめた。


「……に……を……誰か、ああ、そこ、の……女子……」


 息も絶え絶えの織姫に耳を貸していた伊織はふらりと立ち上がった。


 織姫は紗那の手を握りしめた。ピンク色の願いの珠が織姫の手の中に現れる。琥珀のような願いを織姫は紗那の掌にぎゅっと押し込んだ。


《預かっていて。あなたが丁度いい。そうして、わたしの彦星を探して伝えて――》


(え? 熱い! 掌が焼ける……っ!)


《今もどこかで苦しんでいる彦星をさがして》


 途中で思念は薄く伸びた。白銀に光る念の珠が発熱し、辺りは星の輝きになった。やがて焼けた珠は、紗那の掌から体内へとゆっくりと潜り込み、光もゆっくりと消えた。「織姫さま! 預かっていてって何を……」聞き返した紗那の右肩を押さえ、伊織が首を振って見せた。



「たった今、織姫さまは亡くなったよ……まさか、織姫さまが」



 伊織もまた、紗那以上に混乱しているようだった。愕然と呟き、織姫の手を離した。ぱた、と織姫の腕が降りた。伊織はふっと紗那を見、腕を掴みあげた。


「紗那ちゃん、何を預かったんだ。見せて」

「彦星さまへのお届け物……手の中に何か預かった」


 まだ混乱しているせいか、声が落ち着かない紗那の掌には濁った血のような痣ができていた。中央を押すと、何か固いものにぶつかる。赤い塊はルビーの欠片のように見えた。掌の皮脂の奥で蠢いている様子だ。


「これは……」伊織はしばし考え込み、手を擦る紗那に告げた。


「織姫継承されたんだ。なら、セカイは僕が手にしなければ、君を護れない。つまり、きみは織姫そのものになった」


 ――このあたしが織姫?! 女子の頂点?!


「無理、無理無理無理」茶化した空気はものの数秒で、消し飛んだ。


 (伊織は冗談を言うタイプじゃない....!)


 意地悪でも、いつでも真剣なその性格にずっと惹かれ続けているのだから。


「ここを出よう。僕らしか目撃者がいない。まして、きみの手の異変。それをウェルドが知れば忽ちお得意の「分析」にかけられるよ。ラボで手を切られるのはいやだろう」

 ――冗談は言わない代わりに、一切の容赦がないのだった。


「恐い」「大丈夫」と伊織は強く手を握ってくれた。手の中に埋もれた珠は今は姿を隠してしまって、少しばかり、ぽこんとしたコブが分かるだけ。


 伊織は斜めに立ち、織姫を見下ろした。


「織姫さま。さようなら」


 倒れたままの織姫さまの顔はとても安らかだった。何か、安心したような顔をして。


 ***


(その後はすぐに船が出された。だから、わたしたちは真実の行方を見失ったのかも知れない)

 平然と船に引き返した紗那と伊織は、甲板で会話をした。幸いまだ誰も乗船してはいない。

 船首楼閣に寄り掛かった伊織に、声を掛けた。

「伊織。地上からはひっきりなしのこの願いはどうなるの? 知っているなら教えて。わたしだってセカイを知りたい。このセカイ、嫌い」

「心配には及ばない。来年、また星の船で逢おう。その時真実が判るから」

「今!」伊織は言い張る紗那の前髪を上げると、額にそっと唇を押しつけて囁いた。


「逢えて嬉しかった。紗那。無理してでも、船に忍び込んだ甲斐があったよ」


 紗那は何も言えず、額を指で擦ってみせた。

 やがて出港、何も知らない子供を連れ、ミズガルズへの帰途に就いた。


(願いは変わらず天に昇る。受け皿を喪った願いはどこへ消える。虹の橋も、セカイも変わらず在るのに、願いを叶えるべき織姫だけが、いなくなった)


「紗那、約束をしよう。一年後も必ず逢おう。お互い、変わらないままで」

「また、離ればなれ」

「今に、逢えるようになるから」


「本当?」涙目の紗那を安心させるような、伊織の熱い抱擁に、紗那は再び雫を染みこませた。まだキスなど早い二人はそれで精一杯。抱き締められればこころ近くなる。今はこれで充分だ。



 こうして、また一年後まで幼い織姫と幼い彦星の恋の逢瀬は遠ざかる。

 抱擁の意味もまだまだ分からない十四歳。



(やっぱり伊織は分かっていない。そしてまた、「寂しい」を言い忘れた――)


 会話が少なくなった中で、先程の伊織の言葉が紗那の脳裏に残響した。


「織姫継承されたんだ。なら、セカイは僕が手にしなければ君を護れない。つまり、きみは織姫そのものになった」

 伊織の意味深な台詞と、季節すら巡らないこのセカイ。織姫殺害の事実は、一年の時の彼方に綺麗に綻びなどなく、隠されていった――。

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