第22話 七夕の星迎②

 紗那は伊織を見詰めた。紗那を伊織もじっと見下ろしている。

 優しい目で見られると心がふるえて、泣きそうになる。


(地上の願いが織姫さまと彦星さまを出逢わせて下さい、なら、地上の願いは、アタシたちが上手く行けば、叶えたことになるの? 織姫なのに、願うって変だし、ねがいなんか)


「寂しがらせたね」


 伊織が両腕を広げて微笑んだ。「伊織…っ!」バルコニーからふわりと紗那の四肢が舞う。伊織にしがみついた紗那の右手の奥底、心の奥底で、楔が外れるような。


 言葉なんか要らない。願いなんか、要らない。

 願いって何? 

 希望って何? 


 セカイに闇が吹き荒れている。だから、願いを抱き続けるのだろうか。でも、忘れてはいけない。伊織が「さよならだ」と告げた事実を。


 恋に足踏みして、愛に地団駄を踏む年月は去った。それでも嬉しいと言いたいのに。


「また、さようならなんでしょ」と離れると、伊織は伸びた背を竦めて、髪を揺らして見せた。


「織姫を誘拐するつもりはない。空中デートくらいにしておくよ」


 いつだって確信犯の伊織。


 再会を噛み締めて、感動も何処へやら、紗那はゲンコツを振り上げた。

「なんで、拳振り上げてるんだ」

「寂しがらせたバツ」

「ハイハイ、怒る気持ちはわかりますよ。紗那ちゃん。あの時はああするしかなかったんだ。殴りたいならどうぞ。僕はそれだけの言葉を言った」


 伊織はすっと眼を閉じた。紗那はしがみついたまま、声を籠もらせる。


「殴れるはずがない。ただ、殴りたいほど、寂しかった。でも、来てくれたならそれで……」

 紗那はふくよかになった胸を伊織に押しつけて、腕を思い切り伊織の首に伸ばして巻き付けた。伊織を前にすると、声が震える。武者震いに近い。


「殷でやったやつ。それで、許」

 止める暇もなく、熱い感触が紗那の唇を覆った。

「……ん」僅かに開いた唇に、伊織を深く受け入れた。ゾクゾクが甦る。掌の紅月季はぐんぐんと育って、しゅるしゅると光り輝く蔦を伸ばし始めた。蔦は紗那と伊織を丸く囲い、蕾をつけた。伊織のキスに集中がなくなり、紗那ははっと右腕に絡んだ蔦に気付いた。

 手から溢れたは大量の薔薇! きらきらと濡れた蕾が光っている。紗那と伊織を取り囲むように薔薇の蔓は伸び続けた。


「――もしかして、開花……? 今のキスで?」

「し、知らない、知らないっ」

「きみの内から出ているんだから、きみの心一つだろう。彦星に届ける前に開花しちゃったけどいいのかな」

「うー……それ、心配してたんだけど……未だに分からなくて」


(あ、消えて行く)


 紗那の腕に育った薔薇はしゅるしゅるとまた種子に戻って刻印に戻った。


「織姫の能力は黄泉太宰府でも解明されていない。まあ、きみが無事なだけ、奇跡だよ」

 

 空中デートを終えて、再びバルコニーに降りた。伊織は先に飛び降りて、次に紗那を抱いて下ろすと、不思議がる紗那の手の甲にそっとキスをしでかして、引き寄せた。


「――凄い馬だね。伊織の?」

「研究施設から拝借したんだ。まあ、ばれたら大目玉だろうが、知った話じゃない。紗那、手を見せてよ」

「伊織、ちっとも大人しくしてないね。あたしばっかり大人になっちゃって」


 唇を曲げたまま、紗那は手を差し出した。紅月季はぽこ、とイボのように固まって、焦げたような形状で、紗那の掌に溶け込んでいる。


「まるで種だ。不思議だらけだよ。植物が育つには時間が必要なのに」


(伊織、また身長が伸びた。ブツブツと独り言や思わせぶりな態度は相変わらずだが、こう、何というか。喉の辺りとか、背骨とか、鎖骨の凹み具合とか。目線とか)


「伊織、帝辛さまに似て来た気がする。なんだか、ちょっと男っぽい」


 伊織の垂れ眼がすっと動いた。


「紗那は、丸くなったよ。ちんくしゃなきみが美しくなったは、その薔薇のせいか」


 ――容赦のない口の悪さは相変わらず。むすっと押し黙った紗那と伊織の間を、願いの珠がすり抜けて消える。


 今宵は七夕星迎。織姫さまが殺されて、悠に十年が過ぎる――。

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