第3話 初めての日帰り温泉旅行 草津温泉②湯もみ
「彩香ってば〜!!」
突然走り出してしまった幼馴染みを追いかける海愛。
そんな声など聞こえていないかのように走り続ける彩香だったが、とある建物の前でようやく足を止めた。
「はぁはぁ……やっと追いついた……」
少し遅れて到着した海愛が息を整える。
「もう……急にどこかに行っちゃうから驚いたよ」
幼馴染みの行動を非難するが、本人は悪びれる様子もなかった。
「見て、海愛。ここで湯もみ体験ができるんだって! せっかくだからやっていこうよ!!」
何だかよくわからない体験会を勧めてくる。
「……湯もみ?」
初めて聞く単語に首をかしげる海愛。
「大きな板でお湯をかき混ぜて温度を下げる作業のことだよ」
「温度を下げる工程なら湯畑で見たけど……」
「ちょうどいい温度にするにはまだ足りないからね。加水せずに入浴できるようにするための知恵だよ。それに、かき混ぜることでお湯が滑らかになるから一石二鳥なんだ!」
「そうなんだ……一応理解はできたけど……それを体験してどうするの?」
正直に言ってあまり気は進まなかった。知らない土地で未知の体験をするなど、いささかハードルが高い。
だが、彩香はやる気満々のようだ。
「何事も経験だからね。それにちょっと興味あるし……海愛もいっしょにやろうよ!」
「えぇ……私はいいよ……」
何事も経験だと言われても、板で温泉をかき混ぜる体験が今後の人生で役に立つとは思えない。だから、どうしてもやりたいという気持ちは湧いてこなかった。
「まぁまぁそう言わないで。こういうのは経験したって事実が大事なんだから」
しかし、彩香が役に立つかどうかで物事を考えないことは海愛も知っている。
彩香は、たとえばRPGをやる時、ストーリー攻略とは関係のないイベントでも全力で楽しもうとするし、スキップ可能な会話でも基本的にスキップしない。だからゲームをクリアするのに時間がかかるのだが、本人はそういうプレイを本気で楽しんでいた。どんなことでもやってみて楽しむことが大事だと考えているのだ。
その考え方は日常生活にも反映されていて、今回のように貴重な体験は積極的にやりたがる。それが彩香なのだ。
だからきっと、海愛が拒否しても一人で体験しようとするのだろう。
「確かに彩香の言うことにも一理あるけど……」
なかなか「自分もいっしょにやる」とは言い出せない海愛。
「とりあえず中に入ってみよっか!」
痺れを切らした彩香が海愛の腕を掴み、強引に建物の中へと引きずり込もうとした。
「ちょ、ちょっと! わかったから! 引っ張らないで!!」
湯もみ体験をするかどうかはともかく、見学するだけなら許容範囲だ。
だから、海愛は素直に彩香についていくことにした。
建物の中に入ると、大きな長方形の浴槽が真っ先に視界に飛び込んできた。浴槽の中は温泉で満たされている。
その浴槽をぐるりと囲むように柵が立てられていた。観光客は柵の外側で見物するようだ。
一方、柵の内側には複数の女性従業員が待機していた。時折、笑顔を浮かべながら観光客に向かって手を振っている。おそらくこの女性たちが湯もみを実演してくれるのだろう。
「結構人がいるね……」
今日が土曜日というのも大きな理由だろうが、建物の中では多くの観光客が湯もみの開始を待っていた。
海愛と彩香も観光客の中に混ざり、浴槽の方へと視線を向ける。
「そろそろ始まると思うよ」
彩香が耳元でささやいたかと思うと、すぐに湯もみの実演の開始時間となった。
待機していた女性たちが大きな板を両手で持ち、その板を湯の中に入れて左右に動かし始める。
それと同時に女性たちがかの有名な『草津節』を歌い出した。日本人なら誰でも一度くらいは聞いたことがあるであろうあの民謡だ。
そんな有名な唄に彩香が反応する。
「この唄、知ってる! 海愛も聞いたことあるよね?」
湯もみを知らなかった海愛でも、この唄は聞いたことがあった。
「うん。さすがに私でも知ってるよ。湯もみってこんな風にやるんだね……思ったより迫力があってビックリしちゃった……」
女性たちはかなり激しく板を動かしているため、板が浴槽の縁に当たる度にゴトゴトと音が鳴るし、大きな水しぶきも上がっている。
その迫力に目を離すことができない。他の観光客たちも興奮を抑えられないといった様子で、前のめりに見学している。
棒状の物でただお湯をかき混ぜるだけだと思っていた海愛にとって、目の前で行われている湯もみは非常に荒々しく、一種の競技のように感じられたのだった。
いつまででも見ていられそうだったが、ものの数分で実演は終了となる。
次は彩香お待ちかねの湯もみ体験だ。
女性従業員が参加者を募っている。
彩香は一番に手を上げた。
「はい! あたし、やってみたいです!!」
挙手した後、大きな声でアピールをする。
あまりに目立つ行動をしたため観光客たちの視線が集中したが、本人はまったく気づいていないようだ。その視線は、眼前の浴槽だけを捉えていた。
そんな積極的な彩香は真っ先に指名された。
本人は大喜びだ。
「やった! 指名されたよ! ……それじゃあ、あたしは行ってくるけど海愛はどうする? 一緒にやってみる?」
念願の湯もみ体験に指名された彩香が、再び海愛の意思を確認する。
しかし、海愛の気持ちに変化はなかった。
「私はやめとく……こんなに大勢の前でパフォーマンスするなんて絶対無理だから……」
今しがた行われた湯もみは、ほとんどパフォーマンスだ。人前で芸をするなんて、人見知りの海愛にできるわけがないのだ。
そのことは彩香も重々承知いるため、それ以上誘おうとはしなかった。
「そっか……ちょっと残念だけど、しょうがないね。あたし一人で行ってくるよ」
本当は一緒に体験したかったのだろう。残念そうな表情を見せつつも、海愛の気持ちを尊重した彩香。
柵の内側に入り、女性従業員たちに近づいてゆく。
他にも何人かの観光客が湯もみ体験に立候補し、次々に柵の内側へと入っていった。
立候補者が浴槽のまわりに集まったところで、従業員の中の一人が軽く湯もみについて説明を始める。
その後、体験者たちは湯もみ用の板を手渡された。
そうして体験会が始まる。
板をお湯に浸け、左右に動かそうとする観光客たち。だが、思うように温泉をかき混ぜることができないようだった。
それは彩香も例外ではない。必死に板を動かしてお湯をかき混ぜようとしている姿を見れば、湯もみに悪戦苦闘していることが伝わってくる。先ほどの実演ではそれほど難しそうには見えなかったので、少し意外だった。
それでも懸命に板を動かす彩香。
だが、結局最後まで女性従業員たちが実演してくれたような迫力のある湯もみをすることは叶わなかった。
「ただいま~」
湯もみ体験が終了し、彩香が笑顔で戻ってくる。
「お疲れさま。結構苦戦してたね」
「思ったより難しかったんだよ。お湯が重くて板も思うように動かせなかったし、腕が疲れちゃった……たぶん何かコツがあるんだろうね」
湯もみ体験の感想を語る彩香の表情はとても満足そうだった。うまくできなかったことなど気にしていないのだろう。
「簡単そうに見えて実は奥深いんだね、湯もみって……」
「そうだね。あんな迫力のある湯もみができるなんて、あの女の人たちはすごいよ」
「……で、ちゃんと楽しめたの?」
「うん。すっごく楽しかった!!」
「それならよかった」
楽しめたのなら何よりだ。
きっと今日の出来事は、良い思い出として心に残るのだろう。
「……それじゃ、今度こそ温泉に入りに行こうか」
「やったぁ! もう待ちきれないよ!」
海愛が両手をあげてはしゃぐ。
今までずっとおあずけをを食らっているような気分だったのだ。
早く温泉に入りたくてうずうずしてしまう。
「この近くの入浴施設でいいよね?」
「うん!!」
かくして二人は建物の外に出て、立ち寄り湯を受け付けている施設に向かうのだった。
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