第172話 文化祭⑰
日が西に沈み始め、周囲が薄暗くなった頃。
とある公園で正明と朱里は久しぶりに顔を合わせた。
仕事が終わってそのまま約束の場所に向かったからか、朱里はメイクを落としていない。
もともと美人の妻だが、メイクのおかげでより美しく見えた。
「正明! お待たせ!」
先に到着して妻を待っていた正明に、ベージュのトレンチコートでしっかりと防寒対策をした朱里が声をかける。
「早かったな、朱里。もう少し遅くなると思ってたぞ」
「早く海愛の作ったオムライスを食べたかったからね。タクシーの運転手を急がせちゃったの!」
「なるほどな……それじゃ、とりあえずそこの東屋にでも移動するか」
「ええ……」
この公園は比較的広く、飲食のできる東屋も建てられている。
そこでなら座ってゆっくり食事ができるため、二人は場所を変えることにしたのだった。
夕方になり、すっかり
やがて目的の東屋にたどり着くと、二人は並んでイスに腰を下ろした。
正明はさっそく紙袋の中からオムライスを取り出し、朱里の目の前に置く。
ラップを剥がした朱里は、娘が友だちと作ったオムライスを見て目を輝かせた。
「すごい! これを海愛が作ったの!? さすが私の娘だわ!」
紙皿に載っているオムライスは少し不格好で、ここまで運んだために形も崩れてしまっている。
しかし、娘がクラスの友だちと一緒に一生懸命作ったという時点で朱里にとっては高級料亭の料理以上に特別な一品なのだ。
「それじゃさっそく……いただきます!」
見た目を楽しんだ後は、お待ちかねの実食タイムだ。
プラスチックのスプーンを手に取り、オムライスを掬って口に運ぶ。
「うん! 美味しい! 本当に成長したのね海愛……」
娘の成長を実感し、感動する朱里。泣きそうになるのをぐっと堪えているのが傍からでもわかった。
「実際は友だちにかなり協力してもらったみたいだが……それでもやっぱり嬉しいよな」
「ええ、そうね……」
人見知りだった娘がクラスの友だちと一緒に料理するまでに成長してくれたことが何より嬉しい。その気持ちは正明も朱里も同じだ。
二人は今、久しぶりにまったく同じ感動を味わっていた。
この後も正明が微笑ましそうに見守る中、スプーンでオムライスを口に運び続ける朱里。
すっかり冷めてしまっているが、それでも美味しそうに頬張っている。
やがて完食した朱里はスプーンを紙皿の上に置き、手を合わせるのだった。
「ごちそうさまでした!」
「……満足したか?」
「ええ。あなたがテイクアウトしてくれたおかげよ。ありがとね」
礼を言いながら、朱里がペットボトルの水でのどを潤す。
その幸せそうな表情を見て、無理にでもテイクアウトしてよかったと思う正明だった。
「――ところで正明……」
やがて水分補給を終えた朱里が、ペットボトルのキャップを閉め、おもむろに話を切り出す。
「どうした? 朱里……」
「海愛に例の話はしたのよね?」
「あ……えっと……」
その瞬間、正明の表情が固まった。
視線を逸らし、わかりやすく取り乱し始める。
まるで訊かれたくないことを訊かれてしまったと言わんばかりだ。
当然だがその態度は朱里に不審を抱かせた。
「まさか話してないの!?」
「スマン……実は話せなかったんだよな……」
隠しても無駄だと判断した正明が素直に白状する。
しかし、白状しただけでは納得してはもらえないようだった。
朱里が正明を責め始める。
「一体何のための休暇よ!? 今回は海愛に例の話をするために休みを取って自宅に帰ったんじゃなかったの?」
「確かにその通りなんだが……何となく話すタイミングがなくてな……結局話せないまま休暇が終わっちまったってわけだ」
「タイミングがなかったって……休みの間はずっと海愛と一緒に生活してたのよね?」
「仕方ないだろ! 朱里だってたぶん簡単には話せなかったと思うぞ?」
「それは……そうかもしれないけど……」
正明から反論されたことで、ようやく口を閉じた朱里。
自分だって、実際に海愛に会ったら例の話を切り出せるかわからないことに気づいたのだ。
「……まぁ今回は無理だったけど、いつか必ず話すよ。この話は俺の口から伝えるのが筋だからな」
「言っておくけど、そんなに猶予はないわよ?」
念を押すように朱里が言う。
「そうだな……もう猶予はほとんどない。だが、もう少しだけ海愛には知らせないでおこう」
猶予がないことを心配する妻に、正明が自分なりの考えを伝えた。
それを聞いた朱里が考えごとを始める。
そんな妻の横顔を、無言で見つめる正明。
彼女はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開くのだった。
「わかったわ……あなたがそう決めたのなら、私も海愛には伝えないことにするわね」
どうやら夫の意見を尊重してくれるようだ。
「悪いな……そうしてくれると助かる」
安堵した正明は、妻の顔から視線を逸らし、遠くを見つめた。
これが単なる先延ばしであることは重々承知している。
どうせいつか伝えなければならないことなのだから、もしかしたら早い方がよいのかもしれない。
だが、話せば間違いなく海愛はショックを受けるだろう。
だから今はまだどうしても伝える気にはならないのだ。
――もう少しの間だけ知らないままでいさせてあげよう。
それが今の正明の考えだった。
◇◇◇◇◇
一方、その頃。
海愛の通う学校では、後夜祭が行われていた。
一般客の来場はだいぶ前に終了し、保護者や他校の生徒などはみな帰途についたため、現在校内には本校の生徒と教師しかいない。
時刻はすでに18時過ぎ。
太陽は完全に沈み、周囲はすっかり暗くなり、空には星が輝いていた。
そんな真っ暗な学校のグラウンドで煌々と燃え盛っているのが定番のキャンプファイヤーだ。
後夜祭の目玉とも言えるその炎は、非常に明るく迫力があって、見ているだけで楽しい気分になれる気がする。
また、キャンプファイヤーのまわりでは恋人のいる生徒たちがフォークダンスを踊っていた。
その様子を、少し離れた場所でベンチに腰をかけつつ眺める海愛。
クラスの片付けも終了し、やることがなくなったためグラウンドの隅に設置されているベンチで休憩することにしたのだ。
ちなみに今は制服に着替えた生徒も多いのだが、海愛は未だにメイド服姿だった。
そんな海愛のもとに、同じくメイド服姿の彩香がやって来る。
両手には缶ジュースが一本ずつ握られており、そのうちの一本を差し出してくるのだった。
「お疲れ、海愛!」
「あ、彩香! お疲れさま!」
ジュースを受け取りながら、端に寄って彩香の座るスペースを作る海愛。
そのスペースに彩香が腰を下ろした。
「このお祭りももうすぐ終わっちゃうね……」
缶ジュースを両手で握りしめながら、海愛が寂しそうにつぶやく。
「うん……あっという間だったよね」
彩香もまったく同じ気持ちのようだ。
終わってほしくないと考えていることが表情から簡単に読み取れた。
「……そういえば桃ちゃんは無事に帰れたの?」
急に小学生の桃が無事に帰宅できたのか気になり、その安否を確認する。
彩香はスマホの画面を見せながら、その質問に答えた。
「桃なら大丈夫だよ。さっきスマホを確認したら、だいぶ前に家に着いたって連絡がきてたから」
「それならよかった……」
それを聞いてほっと安堵する海愛。
しっかり者とはいえ桃はまだ小学生だから、どうしても心配になってしまうのだ。
まるで自分の妹のように桃のことを心配する海愛に、今度は彩香が話しかけた。
「ところで海愛……」
「なに? 彩香……」
「この後クラスのみんなで打ち上げをしようって話してたんだけど、海愛はどうする?」
どうやら打ち上げの誘いのようだ。
きっとファミレスあたりで食事でもするのだろう。
人見知りの海愛は昔からその手のイベントに苦手意識を持っているため、参加するかどうかを確認した方がよいと彩香は思ったのかもしれない。
だが、今の海愛には考えるまでもないことだった。
少し前までなら参加を躊躇っただろうが、今は人見知りもだいぶ改善されている。
クラスメイトとなら多少は会話ができるまでに成長したのだ。
だから海愛は、彩香の誘いに対して迷うことなく返事をした。
「私も行くよ」
「わかった。クラスのみんなにも伝えておくね」
海愛の参加を伝えるため、さっそくスマホを操作し始める彩香。
打ち上げに参加すると聞いてまったく驚かなかったのは、ある程度返事を予想していたからだろう。
今の海愛なら打ち上げに参加できると彩香も確信しているのだ。
「……よし! 送信完了!」
彩香がスマホの操作を終える。
それと同時に校内のスピーカーから文化祭の終了を告げる放送が流れてきた。
「……終わっちゃったね、文化祭」
放送を聞き、寂寥感に襲われる海愛。
それほどに楽しいイベントだったのだ。
「うん……でもまだ打ち上げもあるし、ぼんやりしてるヒマはないよ! とりあえず着替えにいこっか!」
彩香がベンチから勢いよく立ち上がる。
「そうだね。急いで着替えて打ち上げに行こう!」
続いて海愛もベンチから立ち上がった。
そして二人は制服に着替えるため、更衣室への移動を開始する。
こうして高校生活最初の文化祭は幕を閉じたのだった。
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