第34話 海愛の奥多摩日帰り旅行①
「ヒマだな……」
夏休みも八月に突入したある日の午前中。
朝食を済ませた海愛は、自室のベッドでポツリとつぶやいた。
「今日は何しようかな……」
仰向けに横たわり、ぼんやりと天井を見つめる。
せっかくの夏休みだというのに、やることがない。
ただベッドに横たわって、時計の秒針の進む音に耳を傾けるのみだ。
思えば長期休みはいつも時間を持て余している。
部活に入っておらず、遊びに誘えるような友達も少ないため、まとまった時間を与えられても困ってしまうのだ。
「宿題もだいたい終わったし、バイトも今日は休みだし……」
今年の夏休みも例年通り家に引きこもって勉強するか本を読むだけの毎日を送っている。
そのため宿題だけは異様なスピードで消化することができるのだ。
まだ八月になったばかりでまったく宿題に手をつけていない不真面目な学生も多いだろう。
そんな宿題を後回しにする学生がたくさん存在する中で、すでに大半を片付けてしまった海愛は優等生の部類に入ると言えるのかもしれない。
しかし、宿題を早めに終わらせてしまったことの弊害が今の手持ち無沙汰の状況だ。
何か趣味でもあれば時間を潰せるのだろうが、あいにく海愛にこれといった趣味はない。
好きなことといえば天体観測くらいなのだ。
「彩香に電話したら迷惑だよね……」
幼馴染みに電話でもしようかとスマホに手を伸ばすが、直前で思いとどまる。
彩香は今日、実家の銭湯の手伝いがあるのを思い出したからだ。
現在の時刻は午前八時過ぎ。
今頃は開店に向けて大忙しだろう。
電話などしたら仕事の邪魔になってしまう。
そう考えてスマホに伸ばした手を引っ込め、再びベッドに仰向けに寝ころんだ。
何をするかもう一度考えてみる。
しかし、現在海愛が自分から遊びに誘える相手は彩香だけだという悲しい事実が遊びの選択肢を狭めていた。
一応、潮干狩りの時に仲良くなった江畑雫や福祉の授業で同じ班になった窪内友喜とは連絡先を交換しているが、彼女たちに自分から連絡する勇気はまだないのだ。
「そういえば、この間の六甲山のハイキングは楽しかったな……」
ベッドに寝転がってボーッとしていたら、不意に先日の神戸旅行の記憶が思い起こされた。
神戸から戻ってきてまだ一週間ほどだから記憶も鮮明だ。
あの旅行は最初から最後まで『最高』の一言だが、特に六甲山でのハイキングが印象に残っている。
自分は自然の中を歩くという行為が好きなのではないか――唐突にそんな考えが頭をよぎった。
これまで天体観測くらいしかアウトドアと呼べる行為をしたことがなかったので、ハイキングの楽しさに気づけないでいたのだろう。
だが、今はその楽しさを知っている。
人工物の少ない場所を散策すると、日々の疲れや悩みを忘れてリフレッシュできるということも学んだ。
そのためか、海愛の頭にとある考えが浮かぶ。
「奥多摩に行ってみようかな……」
東京都の西部に位置し、自然に囲まれた人気の観光地。
都心からなら日帰りできる距離だし、電車で行けるので学生でもアクセスしやすい。
そこまで知っているのに、今まで海愛は奥多摩に行ったことはなかった。それほど興味を持つことがなかったからだ。
しかし、自然の中で過ごすことの魅力を知ってしまった今は奥多摩に興味津々だ。
俄然『行きたい』という気持ちが湧いてくる。
「……よし! 行こう!」
今この瞬間、奥多摩に行くことが決定した。
ベッドから起き上がり、出かける準備をする海愛。
準備と言っても、可愛らしいピンクのポーチにスマホや財布を入れるだけだ。
服装は、今着ている襟付きの白いワンピースに帽子でもかぶれば充分だろう。予報では今日も一日暑くなるらしいので、薄着でも問題ないのだ。
そのため準備はすぐに終わる。
最後に日焼け止めクリームを丁寧に塗ると、ツバの付いた帽子をかぶり、海愛は家を出た。
直射日光の降り注ぐ道を歩き、最寄りの駅で電車に乗り込む。
まずは立川駅を目指した。
立川駅で青梅線に乗り換え、さらに西へ向かう。
そうして家を出てから約二時間ほどで、青梅線の終点である奥多摩駅に到着したのだった。
「わ~自然がいっぱい……」
駅を出てまず驚いたのは、駅周辺の緑の多さだ。
青々とした木々に囲まれており、同じ東京とは思えないほどに雰囲気が違っていた。
「さてと……何をしようかな……」
特に予定は立てずに来たので、何をするかは決めていない。
とりあえず周辺を散策してみることにした。
夏休みシーズンだけあって駅のまわりは観光客であふれている。
もう少し静かな場所を想像していたのだが、人が多いせいで非常に賑やかだった。
さらに八月なので夥しいほどのセミがそこら中でけたたましく鳴いている。
もしかすると、都心よりも騒がしいかもしれない。
「六甲山も観光客は多かったけど、ここはそれ以上だなぁ……」
やはり首都圏から気軽に来られる場所というのが最大の理由だろう。
都会の喧騒から離れることが目的なら、時期は選んだ方がいいなと思う海愛だった。
そんなことを考えながら、観光客の多い道を歩く。
すると、五分も歩かないうちにちょっとした渓谷が見えてきた。
遠くからでも目立つ橋がかかっており、その下には緩やかな渓流がある。
氷川渓谷と言うらしい。
川遊びや釣りができるそうなので、海愛は立ち止まってその様子を眺めることにした。
駅周辺も観光客が多かったが、ここも川遊びをする人であふれている。
特に家族連れが多く、幼稚園から小学校低学年くらいの子どもたちが川ではしゃいでいた。
じっとしているだけで汗ばんでしまう季節なので、冷たい谷川の水が気持ちよいのだろう。
多くの子どもたちが年相応にはしゃぐ姿はとても微笑ましい。
「いいなぁ……私も川に入りたくなっちゃった……」
直射日光を避けるために日陰に入っているとはいえ、暑いものは暑い。
定期的に水分補給をしなければ熱中症で倒れてしまいそうなくらい気温は上昇している。
だから川で涼をとっている人たちを見て自分も冷たい水に浸かって涼みたいと思うのだが……水着を持ってきていないので、それは諦めるしかない。
しかし、山間部の谷川は不思議と眺めているだけでも清涼感を覚えることができる。
まわりの自然が熱を吸収し、気温を下げてくれているおかげだろう。
川に入れなくても充分に涼むことができたような気がするのだった。
それから海愛は釣りができるエリアに移動した。
ここは釣り人に渓流釣りを楽しんでもらうための管理釣り場で、定期的に魚を放流しているため、初心者でも比較的釣りやすいようだ。
夏休みシーズンだからか、ここもかなり賑わっている。
ただ、こちらは先ほどの川遊びエリアと比べて一人で来ている人が多い印象だ。
釣りは一人でも没頭できる趣味だから必ずしも家族や友人と来る必要はないのかもしれない。
実際、そういう人たちはソロでも充分に楽しめている様子だった。
一人で竿を振っているだけなのに、表情は生き生きとしている。
今日は魚の食いつきが良いのか、釣り針を川に投入するとすぐにアタリが来る釣り人も多いみたいだ。
中には完全に入れ食い状態で、バケツの中が川魚でいっぱいの人もいる。
釣りはアタリが来なくても釣り糸を垂らしながらのんびり魚が食いつくのを待つ時間が楽しいと聞くが、やはり大半の人にとってはすぐに釣れた方が楽しいらしい。「今日は当たりの日だ」とか「今日ここで釣りができた人は運がいい」などの言葉があちこちから聞こえてくる。
「みんな楽しそうだな……あ! あの人、釣った魚をどこかに持っていくみたい……」
ぼんやり釣り場を眺めていると、とある釣り人が魚の入ったバケツを持って川から離れていくのが見えた。
バケツに入っている魚はおそらくニジマスだろう。
そのニジマスを持って近くの施設の中に入る釣り人。
しばらくすると、その人は塩焼きにしたニジマスを持って施設から出てくるのだった。
「あの施設で塩焼きにしてもらったのかな? そんなサービスもやってるんだ……」
おそらく有料だろうが釣ったばかりの魚をその場で塩焼きにしてくれるサービスは、初心者にはありがたい。
きっと自分で釣ったニジマスの味は格別だろう。
釣り人に人気を博している理由が少しわかったような気がした。
「……そろそろ駅に戻ろうかな」
ただ遊んでいる人を眺めていただけで特にここで何かをしたわけではないが、それでも“自然の中でリフレッシュする”という目的は達成できたと思う。
海愛は釣り場を後にし、駅への道を引き返していった。
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