第33話 一泊二日の小旅行 有馬温泉⑩飲泉

真穂乃はすぐに土産物屋から出てきた。

サイダーの瓶が三本入った袋を右手に持っている。

どうやらこれを買うために入店したらしい。


「はい、どうぞ! 有馬サイダーよ! 有馬温泉に来たらこれを飲まないとね」


袋からサイダーを二本取り出し、海愛と彩香に一本ずつ渡してくる。


「「ありがとう、真穂乃」」


礼を言って差し出された瓶を受け取った。


「……じゃあ、いただきます」


さっそくフタを開け、中に入っている炭酸飲料を口に含んでみる。


「わ……おいしい……」


よく冷えたサイダーは程よい甘みがあってすっきりとした味わいのため、非常に飲みやすかった。

湯上がりで火照った体にはピッタリの飲み物と言えるだろう。


「口に合ったみたいでよかったわ。それじゃ、飲みながらでいいからついてきて!」


真穂乃がくるりと背を向けて歩き出す。

海愛たちもその後についていった。


昼間に比べて観光客の少なくなった有馬温泉街を迷うことなく歩き、あっという間に目的地に到着する。


真穂乃が振り返り、海愛たちに到着したことを告げた。


「着いたわ、炭酸泉源公園! ここで飲泉ができるの」

「……飲泉?」

「文字通り温泉を飲むって意味よ」

「温泉を飲む!? え……大丈夫なの? それ……」


飲むという発想すらなかった海愛にとって、“飲泉”という言葉は衝撃的だった。


温泉といえば浸かって楽しむものというイメージがあるため、どうしても抵抗を感じてしまう。


だが飲泉は別に奇抜な行為ではないことを、温泉旅館で生まれ育った真穂乃は知っている。


「飲むのは飲泉用の温泉だから大丈夫よ? ほら……あそこに蛇口があるでしょ? あの蛇口から飲用できる炭酸泉が出てくるの」


そう言って、公園の敷地内を指差す真穂乃。

その方向には確かに蛇口がある。

しかも蛇口が取り付けられている石には、『炭酸泉源』という文字が彫られていた。

どうやら水道水ではなく、本当に飲泉用の炭酸泉が出てくるようだ。


真穂乃はリュックから紙コップを取り出すと、炭酸泉を注ぐために蛇口に近づいていった。

海愛たちもとりあえずついてゆく。


無言で蛇口をひねり、両手に持った紙コップに炭酸泉を注ぐ真穂乃。


「はい。飲んでみて!」


そして、透明な液体で満たされた紙コップを海愛と彩香に渡してくるのだった。


拒否するわけにはいかないので一応受け取ったが、どうするべきか迷ってしまう。

飲用できるとわかっていても、なかなか口をつける勇気は出なかった。


しかし、戸惑う海愛とは対照的に、彩香はそこまで抵抗を感じていない様子だった。


「いいじゃん! どんな味がするのか気になるし、飲んでみようよ」

「まぁ確かに味は気になるけど……」

「それに、この炭酸泉はここまで来ないと飲めないよ?」

「そうだね……うん、わかった。飲んでみる……」


有馬温泉まで来なければ飲めないというのはその通りだし、味を確かめてみたいのも本心だ。

一番心配な安全性も保障されている。

だから、覚悟を決めて飲むことにした。


紙コップを口元に近づけ、中の液体を口内に流し込む。


「う……」


一口啜っただけで、顔が引きつってしまった。

かすかに炭酸は感じられるものの、鉄っぽい味の主張が強い上にとても苦い。

お世辞にもおいしいとは言えない味だった。


海愛の隣では彩香も顔をしかめていた。


「なんていうか……人を選ぶ味だね……」


言葉を濁しているが、想像以上にマズかったのだろう。ほんの少ししか飲むことができず、ほとんど残してしまっている。


二人はすぐにサイダーで口直しをした。

口内に残る苦みがサイダーの甘みで上書きされてゆく。

大量のサイダーを消費することでようやく口の中をリセットすることができた。


「あはは! やっぱりマズかった?」


真穂乃が笑いながら感想を聞いてくる。


「正直に言えばおいしくはないかな……」


顔に出てしまっている以上、ごまかすことはできないので、正直に答える。


「私も初めて飲んだ時は二人と同じような反応をしたわ。でも、慣れると味はそこまで気にならなくなるのよ」


そう言って、真穂乃は紙コップに自分で飲むための炭酸泉を注ぐと、平然とした表情で飲み干した。きっと子どもの頃から飲み慣れているのだろう。


「す……すごいね、真穂乃……」

「まぁコーヒーみたいなものよ。マズく感じるのは最初の頃だけ」

「なるほど……」


確かに初めてコーヒーを飲んだ時は苦すぎて残してしまったり、ミルクや砂糖を大量に投入して苦みや酸味を中和しつつ無理に飲んだ人も多いだろう。

しかし、慣れてくればいずれブラックで味わうことができるようになる。

飲泉もそれと同じことのようだ。

この先も温泉地を巡っていれば、また何度も飲泉の機会に恵まれるだろう。

それを繰り返してゆくうちに自然と慣れて、いつか真穂乃ように平然と飲泉ができるようになるのかなと思うのだった。


「さてと……そろそろ時間かな……」


彩香が時間を確認してつぶやいた。


「うん……ちょっと名残惜しいけど仕方ないね」


さすがにこれ以上滞在する時間はない。

とても充実した二日間だっただけにもう少しここにいたいという気持ちも強いが、帰りの新幹線に間に合わなくってしまったら困るので、観光は終了だ。


「じゃあ旅館に戻りましょうか」


真穂乃の一言で、三人は旅館に向かって歩き始めた。


炭酸泉源公園から旅館まではほとんど離れていないため、すぐに到着する。

そしてフロントに預けていた荷物を受け取ると、真理乃に車で新神戸駅まで送ってもらうのだった。


「気をつけて帰ってね」


見送りでついてきた真穂乃が、改札に向かう二人に声をかけた。

真穂乃はお盆まで実家で過ごす予定のため、一緒には帰れないのだ。


「うん! 今日は本当にありがとね」

「真穂乃のおかげですっごく楽しかったよ!」


海愛と彩香がそれぞれ返事をする。

二人とも、有馬温泉を案内してくれた真穂乃には心から感謝していた。


続いて真理乃が声をかけてくる。


「また遊びに来てね。海愛ちゃん、彩香ちゃん」


旅館では女将モードだったが、今は最初に会った時と同じ友人の母親モードに戻っていた。


そんな真理乃に、声をそろえて別れのあいさつをする。


「「はい、絶対また来ます! 二日間、本当にお世話になりました!!」」


深々と頭を下げて感謝の気持ちを伝えると、海愛と彩香は改札に向かった。

そんな二人の姿が見えなくなるまで、真穂乃と真理乃は手を振ってくれていた。



改札を通り、ホームで新幹線がやって来るのを待つ二人。

夏休みシーズンの新幹線のホームは、やはり非常に混雑していた。


海愛が静かにつぶやく。


「……楽しかったね、彩香」

「うん! すごく楽しかった!」


彩香も同じ気持ちのようだ。


「大人になったらまた来たいね」

「そうだね……また一緒に来よう! 約束だよ?」

「うん、約束」


大人なったらまた一緒に有馬温泉を訪れるという約束を交わす二人。

その日が今からすごく待ち遠しい。


遠い未来に夢を馳せていると、東京行きの新幹線がホームに到着した。

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