第36話 海愛の奥多摩日帰り旅行③

バスが終点に到着し、海愛は三度奥多摩駅前に降り立った。

もう夕方だが、八月上旬なので空は明るく気温も高い。

観光客もまだそこかしこを歩き回っていた。


「さてと……駅に戻ってきたし、最後はやっぱりアレだよね」


バスから降りた海愛は、そのままとある場所へ向かう。


目的地は、今日の日帰り旅行で一番楽しみにしていた場所。そう――温泉だ。


暑い中、駅周辺を散策したり鍾乳洞を見学したりしたので、汗もかいているし程よく疲れてもいる。

温泉を最大限楽しみたい海愛にとって、今の状態はまさにベストコンディションといえた。


目的地まではスマホのナビを使えばよいので、迷うことはない。


そよ風で木が揺れる音や川のせせらぎ、セミの鳴き声などを聞きながらナビに従って歩いていると、目的の温泉施設が見えてきた。


「……あ! あの建物だ!」


さっそく施設に入り、入浴料と貸しバスタオルの料金を支払う。

そして、女湯へ向かった。


脱衣所で服を脱ぎ、バスタオルを体に巻いて浴室へ。

まだ夕方だが、夏休みなのでそこそこ混んでいる。


この温泉施設には、内風呂と露天風呂が一つずつ用意されているらしい。

海愛はまず備え付けのシャワーで体を洗い、露天風呂に向かった。


「わぁ! 風が気持ちいい……」


露天風呂のまわりには木々が繁茂しており、川のすぐそばなのか水の流れる音が聞こえてくる。

また、木に囲まれているので当然セミや野鳥の鳴き声もよりダイレクトに届く。

完全に森の中の温泉だ。

この環境は非常に心地よく、まだお湯に浸かってもいないのに不思議とリラックスした気分になれた。


「さっそく入ってみようかな……」


景色は充分に堪能できたので、そろそろお湯に浸かることにする。

他にも露天風呂に浸かっている女性客はいたので、迷惑をかけないようゆっくりと足の先から温泉に浸かった。


少しぬめりのある無色透明のお湯に全身が包まれる。


「はぁ~あったかい……」


一日観光して疲れた体と温かい温泉は相性抜群だった。

浸かっているだけで体力が回復しそうな気さえする。

まわりが自然に囲まれていることも癒される要因の一つだろう。

海愛は心ゆくまで露天風呂を堪能した。


「次は内風呂に入ろっと!」


外のお風呂は充分に楽しんだので、次は中のお風呂に入ることにする。


内風呂につながるドアを開け、浴槽へ。

こちらのお風呂も露天風呂に負けないくらい素敵だ。


かけ湯をしてから内風呂に浸かる海愛。

中のお風呂なので、露天風呂と比べれば少し温度が高い気がする。

しかし、熱すぎるわけではないので快適に湯に浸かることができた。

もしも他に入浴客がいなかったら、思わず鼻唄を口ずさんでいたかもしれない。

それほどに今の海愛はリラックスしていた。


そんな時だった――脱力状態の海愛に一人の女性客が話しかけてきたのは。


「あなたずいぶん若く見えるけど、高校生? 地元の子かしら?」

「……え?」


驚いて声の聞こえてきた方に視線を向ける。

そこには三十代前半と思しき女性の姿があった。

その女性の隣では小学校低学年くらいの女の子がお湯に浸かっている。

おそらく母親と娘だろう。地元民には見えないので、きっと家族旅行か何かで奥多摩に来たのだろう。


「え、えっと……」


女性客の質問にとっさに答えることができず、パニックになってしまう海愛。

昔に比べればだいぶ人見知りも改善されてきているが、初対面の人との世間話はまだ緊張してしまうだ。


しかし、それでも何とか声を絞り出して会話を成立させる。


「地元民じゃないんですけど、東京在住です」


緊張しているためたどたどしい口調になってしまったが、とりあえず質問には答えた。


「そうなのね! 私たちは埼玉から家族旅行で来たの」

「埼玉のどちらですか?」

「深谷よ」

「深谷!? 群馬県との県境ですよね? そんなに遠くからわざわざ……」

「確かに少し距離はあるけど、もともと奥多摩に興味あったから移動もそんなに苦じゃなかったわよ」

「そうなんですね。今日は何をされたんですか?」

「今日は自然の中を歩いたり川遊びをしたわね。主人はずっと釣りをしてたけど……明日は三人で日原鍾乳洞に行く予定なの」

「あ、鍾乳洞ならさっき行ってきましたよ!」

「あら、そうなの? どうだった?」

「すごく良かったです。……でもちょっと寒かったから、上着は用意した方がいいかもしれません」

「夏なのに鍾乳洞の中は寒いのね……ありがとう。明日はちゃんと上着を持っていくわね」

「いえいえ。お気をつけて」


女性客との間でとりとめのない会話が続く。


海愛は、いつの間にか自分が初対面の人と普通に話せていることに気がついた。


少し前までならこんなことは不可能だっただろう。

人見知りは確実に改善の兆しを見せている。

少しずつでも成長していることが感じられて、何だかとても嬉しい気分になるのだった。



その後、露天風呂に向かうという母娘おやこと別れの挨拶を交わし、海愛は風呂から上がった。


脱衣所で濡れた体を拭き、服を着て、洗面所のドライヤーで髪を乾かしてから荷物を持って女湯を出る。

それから少しお土産を探した後、海愛は帰宅するべく奥多摩駅へ引き返すことにした。


思い返してみれば、今日一日でたくさんの思い出ができた気がする。

特に初対面の人と会話ができたことが本当に嬉しかった。

五分にも満たない会話なのでまだまだ満足するべきではないだろうが、それでもこの話を彩香に聞かせたらきっと驚くだろう。……というか、一人で奥多摩を観光したと言った時点で仰天しそうだ。

土産話を聞いてもらうのが今から少し楽しみになった。


「早く彩香に今日の出来事を話したいな……」


幼馴染みの驚く顔を思い浮かべながら、海愛は駅への道を引き返していった。


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