第2話 初めての日帰り温泉旅行 草津温泉①群馬へ
高校に入学して最初の土曜日。
約束通り彩香は午前八時頃に海愛の家にやって来た。
海愛の家は他の住宅より一回りも二回りも大きいため、遠くからでも非常に目立つ。それだけ両親が高収入なのだ。
そんな両親の一人娘として生まれた海愛は経済的に恵まれている。彩香が海愛を気軽に旅行に誘うことができたのも、そういう事情を知っているからだ。旅をするための資金を充分に持っている相手なら誘っても問題ないというわけだ。
彩香がインターホンを押す。
「はーい。ちょっと待っててね」
幼馴染みの姿を確認した海愛は、すぐに玄関に向かった。
前日の夜にすでに準備は済ませてある。そのため、今すぐにでも出発できる状態だった。
「おはよう、彩香!」
玄関のドアを開け、あいさつをする。
今日の海愛は白のブラウスにグレーのロングスカートを穿いており、まだ肌寒いので赤いカーディガンを羽織っている。そしてピンクのマリンキャップをかぶり、財布やスマホや替えの下着などの入ったミニリュックを背負っていた。
「おはよう! 晴れてよかったね」
彩香も元気よくあいさつを返す。二人で遠出できることが嬉しいのか、無邪気な笑顔を浮かべていた。
本日の彩香は少しサイズの大きいTシャツにショートパンツ姿で、海愛と比べてかなり薄着だ。もともと寒さに強い体質なので、春先にはもう厚着をする必要がないのだ。
また、海愛と同じように背中にはリュックを背負っている。その中に着替えや貴重品などを入れているのだろう。
ちなみに、タオルは向こうで借りられるので二人とも持っていかないことにしている。荷物はなるべく増やさない方がよいからだ。
「今日は一日中快晴みたいだよ」
「そうだね。雨具が必要ないから荷物が少なくて助かるよ。それじゃ、行こっか!」
「うん!!」
そうして二人は、ところどころ桜の花びらで覆われている道を並んで歩き始めた。
歩くこと数分ほどで最寄りの駅に到着する。
「まずは上野に行くからね」
彩香が先頭に立ってホームに入り、海愛がそれに続いた。
すぐに目的の電車がやって来たので、余裕をもって乗車する。
普段から乗り慣れた電車が動き出した。
吊革につかまり、窓の外の見慣れた景色を眺めながら目的の駅に到着するのを待つ。
やがて上野駅に着いたので、二人は下車した。
「上野……ここが特急草津の始発駅なんだよね?」
「そうだよ。乗り換えなしで草津まで行けるから便利なんだ」
「さすが有名な観光地だね」
そんな会話をしながら上野駅の人混みの中を進み、特急草津の停まるホームに到着した。
目的の特急電車はすでに停車しており、乗車可能の状態だ。
すぐさま乗車し、指定席に並んで座る二人。窓側に海愛、通路側に彩香の席順だ。土曜日なので車内はそこそこ混んでいる。
「なんかちょっと眠くなってきたかも……」
席に座った途端、海愛は強烈な睡魔に襲われて大きなあくびをした。
瞼が重くなってゆくのを感じる。
そんな海愛に、彩香が話しかけた。
「眠いなら寝てていいよ。終点まで降りないから乗り過ごす心配もないしね」
「ありがとう。そうするね」
終点までは二時間半ほどかかるので、言葉に甘えて少し眠ることにする。
目をつむると、海愛はものの数分で寝息を立て始めた。
「あたしもちょっと寝ようかな」
彩香が大きく伸びをして、リクライニングシートを後方に倒す。
その後、静かに目を閉じた。
そうしている間にも時間は経過してゆき、乗客もどんどん増えてゆく。発車時刻になる頃には、ほとんどの座席が乗客で埋まっていた。
車内に発車を告げるアナウンスが流れる。
そうして電車はダイヤの時刻通りに動き始めたのだった。
上野駅を出発しておよそ二時間が経過した頃。
「ん……」
眠っていた海愛が目を覚ました。
「ここは……」
まだぼんやりとしている頭を必死に働かせて周囲の様子を探る。
窓の外の景色を見てみると、そこはもう見慣れた東京の街ではなかった。
普段住んでいる場所ではあまり見ることのできない自然が広がっている。旅に出たことを実感させてくれるような景色だ。
「そっか……私、彩香と一緒に草津温泉に向かってるんだった……」
徐々に目が覚めてきて、思考力が戻ってくるのを感じる。
両腕と両足を伸ばし、硬くなった体をほぐした。
海愛が目を覚ましたことに彩香が気づく。
「あ、起きたんだね。今、中之条駅を出たところだから、あと三十分弱で着くよ」
「うん、寝たおかげで頭がすっきりしたよ。早く温泉に入りたい!」
目的地に近づいたことで否応なく高まる期待感。観光するのが今から楽しみになった。
特急電車なので、中之条駅から終点まではノンストップだ。
途中に駅はいくつかあるが、すべて通過してゆく。
車窓の景色をぼんやりと眺めるのもなぜだかすごく楽しい。きっと普段はあまり見る機会のない風景だからだろう。目的地までの往路にもこんな楽しみがあるのだなと感じる海愛だった。
そして、午前十一時半頃。電車は終点の長野原草津口駅に到着した。
「着いたね。早く降りよう、彩香!」
「慌てなくても大丈夫だよ」
テンションが上がってはやる気持ちを抑えられなくなっている海愛に、意外にも冷静な彩香。いつの間にか旅行に誘った彩香より、最初はあまり乗り気ではなかった海愛の方が楽しんでいるという不思議な現象が起きていた。
電車から降りて、改札を出る二人。他にも多くの乗客がこの終点の駅で下車していた。
「ここからはバスで移動するからね」
改札を出た彩香が、駅前のバス停に向かう。
「なんか……今の時点で旅に出たって実感が湧いてくるよ」
海愛が視線をあちこちに巡らせながら、彩香についてゆく。両親が忙しいせいでこれまであまり旅行をしてこなかった海愛は、駅前の景色だけで非日常感を味わうことができるのだ。
二人がバス停の前で足を止める。
バス停には、すでに草津温泉行きのバスが停車していた。
そのバスに乗り込み、空いている席に座る。
海愛たちが乗り込んだ後も、次々に観光客と思しき人が乗車してきた。おそらくほとんどが草津温泉に行く予定なのだろう。
乗客の中には大荷物の人もたくさんいる。そういう人たちは日帰りではなく、旅館に宿泊して温泉や周辺の施設をじっくりと楽しむつもりなのかもしれない。
すべての乗客が着席すると、ドアが閉まり、バスが動き出した。目的地まではもう少しだ。
「早く着かないかなぁ……」
そんなことを考えながら街並みを眺めること約三十分。ついにバスは草津温泉に到着した。
乗客が一斉に下車し始める。
最後に海愛と彩香がバスから降りた。
「ここが草津温泉……」
旅館や土産物屋が立ち並び、そこかしこから温泉の湯気が立ちのぼっていた。また、街中に硫黄のにおいが漂っている。
「うぅ……寒い……」
はしゃぐ海愛とは対照的に、彩香は気温の低さに体を震わせていた。比較的寒さに強い彩香でも、四月上旬の草津の気温は耐えられないようだ。草津は東京と比べて標高が高いので、気温も低いのだ。
「向こうに何かあるよ!」
興奮気味の海愛が、じっとしていられずに駆け出した。
「あ……待ってよ、海愛!」
リュックから厚めのカーディガンを取り出して羽織った彩香が後を追いかける。
狭い道を駆け、開けた場所で足を止める海愛。
「すごい……」
眼前には草津温泉の象徴とも言える湯畑が広がっており、大量の温泉が上方から下方に向かって流れていた。
その圧倒的存在感に思わず惚けてしまいそうになる。
ネットの画像などで見たことはあるが、やはり現地で実物を見ると迫力が段違いだ。
しばらくの間、海愛の視線は巨大な湯畑に釘付けになっていた。
そこに彩香が追いついてくる。そして、海愛と同じように湯畑に目を奪われた。
「おぉ~大迫力だね、湯畑。木樋を使って温泉を流すことで源泉の温度を下げてるんだよね」
「源泉の温度を下げる?」
「うん。源泉は温度が高くてそのままじゃ入れないから、こうやって温度を下げる必要があるんだよ」
「そうなんだ……」
改めて湯畑を見下ろす。
確かに彩香の言う通り、この方法なら下まで流れ落ちる頃にはだいぶ温度が下がっているだろう。
「……でも、こんなに大量に流して源泉が枯れたりしないのかな」
温泉を流す理由は理解できたが、量が多すぎるため源泉の枯渇が心配になってしまう。
「それは大丈夫だよ。草津温泉の自然湧出量は日本一だから」
「……え? そんなに湧き出してるの!?」
「うん。……もっとも、単純な湧出量だと大分県の別府温泉の方が上だけどね」
「すごいんだね、草津温泉って……」
自噴量が日本一ならそう簡単に枯渇しないのも納得だ。彩香の説明と眼前の湯畑の壮大さで、草津の湯の豊富さを実感するのだった。
依然として湯畑に感動する海愛だったが、彩香がさらに聞いてもいないことを語り始めた。
「ちなみに草津温泉は歴史上の偉人や有名人もたくさん訪れているんだよ。そこに『草津に歩みし百人』って書いてあるでしょ? 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とか源頼朝とか小林一茶とか……そういう人たちに大人気の温泉だったんだって! 他にも戦国時代には織田信長の家臣である丹羽長秀が草津に来たらしいし、豊臣秀吉に仕えていた大谷吉継もここを訪れた記録が残っているみたい……それから江戸時代には徳川家の将軍が草津の湯を江戸の町まで運ばせたんだけど……」
「ちょ、ちょっとストップ! そのくらいにしようよ! 時間がなくなっちゃうから」
このまま語らせたら長くなると直感した海愛が彩香の暴走を事前に止める。
彩香はいわゆる歴女だ。歴史の話を始めると止まらなくなることがよくある。
せっかく草津まで来たのに、温泉に入る時間がなくなったら本末転倒だ。だからそうならないようストップをかけたのだ。
「あ……そうだね。ごめんつい……」
「まったく彩香は……歴史の話を始めると長くなるんだから」
暴走しかけた幼馴染みに非難の目を向ける海愛。
そんな海愛に、彩香が反論した。
「いや、海愛に言われたくないんだけど……海愛だって星とか天体のことになると我を忘れるでしょ」
「そ、そんなことないよ! 確かに星は好きだけど!」
予想外の反論に面食らってしまう。
「そんなことあるよ! 昔は天文の話をよく聞かされてたもん!」
「確かに……そうだったかも……」
思い当たるフシが多すぎて、それ以上何も言えなくなってしまう。
「ま、まぁそれはそれとして! 早く温泉に入りに行こっか!」
口論しても勝てそうになかったため、強引に話を切り上げる。
そして彩香の腕を掴むと、入浴施設に向かうべくこの場から離れようとした。
だが、今度は彩香がストップをかけた。
「その前にお昼にしない? あたし、お腹すいちゃった」
それを聞いて海愛も空腹感を覚える。
スマホで時間を確認すると、正午を過ぎていた。
この時間なら空腹を感じてもおかしくはない。先に昼食にするべきだろう。
「わかった……温泉はお昼ごはんの後にする」
二人の意見が一致したため、先に昼食をとることになった。
「それじゃあ近くのお店を調べてみるね。……あ、このお蕎麦屋さんなんてどう?」
彩香がスマホで周辺の飲食店を探し、手頃な店を見つける。
「いいんじゃない? ここで食べよっか」
海愛も特に食べたいものが決まっていたわけではないので、彩香の見つけた店で食事することにすんなり賛成した。
「地図だとすぐ近くにあるみたいだよ」
スマホの画面を見ながらゆっくりと歩き始める。
その店は本当に目と鼻の先にあったため、すぐに見つけることができた。
お昼時なので、店は少し混雑している。
だが、待ち時間は思ったよりも短かった。
入店し、席について料理を注文する二人。
しばらくして注文した料理が運ばれてくると、夢中になって食べ始めた。
海愛にとって、旅先で友達と一緒に店を探して食事するなんて初めての経験だ。しかもチェーン店ではない老舗の飲食店で友達と食事をしている。そんなに大したことではないかもしれないが、少なくとも海愛にはとても大人びた行為に感じられた。
「ふぅ~ごちそうさま」
彩香が料理を完食したらしく、箸を置く。
少し遅れて海愛も食べ終えた。
「ごちそうさま。おいしかったね」
料理も文句なしの味だったため大満足だ。改めて貴重な経験ができたなと感じるのだった。
「さてと……お腹もいっぱいになったことだし、そろそろ行こうか。海愛ももういいよね?」
「大丈夫だよ。早く温泉に入りに行こう!」
長居する理由はないので、食事が済むと、二人はすぐに店を出た。
外は相変わらず観光客で賑わっている。
そんな観光客だらけの道を歩く海愛と彩香。
目的の日帰り温泉施設は、ここから徒歩圏内にあるのだ。
土産物を扱う店に目移りしながらも目的地に向かって歩いていると、
「……あ! あそこで何かやってるみたい! ちょっと寄ってみようよ!!」
興味を惹かれるものを見つけたらしい彩香が、突然別の方へ走り出してしまった。
「彩香、どこ行くの!?」
海愛が慌てて追いかける。
しかし、彩香は振り返ろうともしない。脇目も振らず、本来の目的地と別の方向に進むのみだ。
「ちょっとぉ! 温泉に入る時間がなくなっちゃうよ!」
そんな声も彩香には届かない。
「彩香ってば〜!!」
今日温泉に入れるのか心配になりながらも、必死に幼馴染みの背中を追いかける海愛だった。
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