第9話 鴨川温泉
「おばあちゃん、ただいま~」
雫が民宿のドアを開け、祖母に帰宅を告げる。
「あら、お帰りなさい。たくさん採ったわね~」
雫の祖母が顔を出し、三人を迎え入れた。
「うん、思ったより採れたよ! でも、かなり汚れちゃったからシャワー借りてもいい?」
「それは構わないけど……どうせなら三人で温泉に入りに行くのはどうかしら?」
「……え!? この近くに温泉があるんですか?」
祖母の話に彩香が食いつく。
「あるわよ~。鴨川温泉って言ってね……太平洋を一望できる最高のお風呂なの! あたしが車を出すから行ってみない?」
「行きたいです! 海愛もいいよね?」
彩香が同意を求めてくるが、海愛の意思はすでに決まっていた。
「うん。私も行きたい」
お風呂好きとして断る理由はないのだ。
最後に雫の意思を確認する。
「江畑さんもいいかな……?」
「二人が行くなら私も行くよ。普段あんまり温泉とか行く機会ないから興味あるし」
三人の意見が一致したため、鴨川温泉に行くことが決定した。
「それじゃあ、あたしは車で待ってるから準備ができたら来なさいね」
祖母が民宿を出て、車の方へと向かう。
「……とりあえずこのアサリをクーラーボックスにしまおうか」
持参したクーラーボックスに手を伸ばす彩香。
蓋を開け、網の中のアサリをクーラーボックスに移した。
海愛と雫も同様に手持ちのアサリを入れる。
ボックスの中はアサリでいっぱいになった。
その後、荷物を置いた空き部屋に戻り、リュックの中からタオルと着替え以外のものを取り出す。入浴するのに必要のないものはここに置いていこうと考えたのだ。
「二人とも、準備できたかな? おばあちゃんの車のところまで案内するからついてきて!」
荷物を減らしたことで軽くなったリュックを背負い、三人は空き部屋を後にした。
民宿の外では、祖母がすでに車のエンジンをかけて待機していた。
「……お待たせ、おばあちゃん」
三人が順次乗車する。
助手席に雫が座り、後部座席に海愛と彩香が座った。
「みんなシートベルトは着けたね? じゃあ出発するよ」
全員がシートベルトを着用したことを確認すると、祖母はアクセルを踏んだ。
車がゆっくりと動き始める。
こうして一行は目的地である鴨川温泉に向けて出発するのだった。
ゴールデンウィークだけあって道はかなり混んでいる。
しかし、さすが地元民と言うべきか、祖母は裏道や近道に詳しかった。
渋滞しているとみるや、カーナビの指示を無視して別の道を進む。
おかげで混雑しているわりには早く目的地に到着したのだった。
海のすぐそばに建てられた立派な建物。ここが今回利用する予定の日帰り温泉施設だ。
駐車場もほぼ満車状態だったが、何とか空いているスペースを見つけて車を停める。
完全に停車したところで、三人は車から降りた。
「あたしはこの辺で適当に時間潰してるから、後で連絡をちょうだい」
「わかった。お風呂から上がったら電話するね」
祖母を車に残し、施設へと向かう三人。
当初の予定ではここに来るつもりはなかったので、事前に調べたりはしていない。つまり、まったく未知の温泉なのだ。入る前からワクワクしてくる。
施設に入ると、すぐ目の前に受付があった。
「あそこが受付みたいだね。……で、あっちがお風呂かな?」
彩香が受付に向かって歩き出す。海愛たちがその後に続いた。
そして入浴料を払うと、三人はまっすぐに女湯の脱衣所に向かうのだった。
脱衣所で服を脱ぎ始める海愛たち。
服は思った以上に汚れている。その汚れ具合で、自分たちがいかに夢中になって潮干狩りをしていたのかがよくわかった。
真っ先に脱衣を完了させたのは彩香だった。
相変わらずタオルすら持たずにすっぽんぽんの状態で露天風呂に向かおうとしている。
「ちょ、彩香!? その格好で行くの!?」
当然雫は困惑した。
「あ~あれはいつものことだから大丈夫だよ」
「いつものことって……」
「彩香の実家が銭湯なのは知ってるでしょ? 子どもの頃から公衆浴場に入ってるから裸でも浴室をうろつくことに慣れちゃったみたい……」
「えぇ……」
海愛の説明を聞いて若干引き気味になる雫。
「とにかく彩香は大丈夫だから、私たちもお風呂に入ろうよ」
「……うん、そうだね」
まだ少し彩香のことを気にしている様子だったが、海愛の提案には素直に賛成してくれた。雫も早く体を洗いたいのだろう。
二人はバスタオルを巻くと、露天風呂へと向かった。
「うわ~すごいね。温泉の向こうに海が広がってる!!」
露天風呂から見える景色に海愛が感嘆の声を上げる。
「天気がいいから遠くまで見渡せるね」
眼前に広がる一望千里の大海原はまさに息を呑むような光景だった。
他の入浴客たちはみな大海原を見つめている。
こんな光景を眺めながら温泉に浸かることができるなんて思っていなかった。
鴨川温泉のことを教えてくれた雫の祖母に感謝の念が湧いてくる。
「もう待ちきれないよ。早く体を洗って入ろう、江畑さん」
「そうだね。私も早く入りたい!」
備え付けのシャワーで髪と体を洗う二人。
潮風でべたついていた体を温かいお湯で洗うのは非常に気持ちが良かった。
そうして隅々まで洗った後は、お待ちかねの露天風呂だ。
足の先からゆっくりと湯船に浸ける。
熱すぎずぬるすぎず、ちょうどよい温度だった。
「草津温泉も良かったけど、ここもすごくいいよ! 海を見ながら入浴できるのが特にすごい!」
温泉の良さは周囲の景色も影響していると海愛は考えている。絶景を眺めながら入浴できる温泉や自然に囲まれた秘湯などは、それだけで気分を高揚させてくれるのだ。
「こんなお風呂なら毎日でも通いたくなるよ。阿佐野さんたちが温泉に行きたがる理由がわかった気がする……」
雫もこの温泉を気に入ったようだ。眼前に広がる大海原から一向に目を逸らそうとしない。
「……ねぇ、阿佐野さん」
海を見つめた状態のまま雫が話しかけてくる。
「……どうしたの? 江畑さん」
「阿佐野さんってどうして温泉に興味を持ったの? アウトドアはあまり好きじゃないって言ってたし……何かキッカケでもあったのかな?」
インドア派の海愛がどのようにして温泉に興味を持ったのか気になったようだ。
「そうだね……もともとお風呂が好きだったっていうのもあるけど、やっぱり彩香が草津温泉に誘ってくれたのがキッカケかな。最初は知らない土地に行くのが怖くて尻込みしちゃって……でも実際に行ったらすごく楽しくて、他の温泉にも行ってみたいって思うようになったの」
「そっか……なんかいいね、好きなものが増えていくって……」
露天風呂の縁に両手を置き、肩から上の部分が湯船から出た状態で目を細める雫。
「江畑さん……」
そんな雫をじっと見つめる。
そこに彩香がやってきた。
「お~い、二人とも! すごいね、この温泉……後で雫のおばあちゃんにお礼言わないといけないね」
彩香も大満足しているようだ。これだけ素敵な温泉なのだから、当然の反応だろう。
「あ、彩香! 海を見ながら入れるのが特にいいよね」
「うん! 何度でも来たくなるよ! ……ところで、海愛……いつの間にか雫と普通に話せるようになってるけど、何かあったの?」
「……え? あ、言われてみれば……」
言われて初めて気づく。
ついこの間までまともに会話できなかったのに、今は人見知りが発動することなく雫と話せている。
こんな短期間で誰かと打ち解けることができたのはおそらく初めてだ。
そのことに海愛自身が一番驚いていた。
「確かにいつの間にか普通に話してくれるようになってるね。本当の意味で阿佐野さんと友達になれたみたいで嬉しいかも」
「友達……」
“友達”という単語に反応する海愛。
「うん、友達だよ。これからもいっぱい遊んだりおしゃべりしようね」
「えっと……こんな時なんて言えばいいのかわからないけど……よろしくお願いします」
もちろん返事はイエスだ。
かなり照くさかったが、友達と呼んでもらえたことは嬉しかった。
高校生になって初めてできた友達。少しだけだが交友関係が広がった。人見知り克服を目標としている海愛にとって、それは大きな一歩だ。
雫との関係は大事にしようと思う海愛だった。
「……さてと、あんまり雫のおばあちゃんを待たせちゃ悪いからそろそろ出ようか」
そう言って、彩香が湯船から上がる。
「そうだね。充分お湯に浸かれたし……江畑さんもいいよね?」
「うん。そろそろ戻らないとね」
そうして三人は脱衣所に戻った。
ドライヤーで髪を乾かし、入浴前に着ていたものとは別の服に着替える。
着替えが終わると、荷物を持って脱衣所を後にした。
雫が祖母に電話をかける。
五分ほどで祖母が迎えに来たので、三人は車に乗り込んだ。先ほどと同様に雫が助手席、海愛と彩香が後部座席に座る。
「三人とも、温泉は堪能できたかい?」
「はい! すっごく気持ち良かったです!!」
彩香が代表して答える。
「それは良かった。じゃ、帰ろうか」
こうして四人を乗せた車は、民宿に向けて走り出すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます