第12話 銭湯にて②
午後六時。海愛の本日の勤務は終了となった。
更衣室で私服に着替えた海愛は、帰宅するべく外に出た。
梅雨時なので今日も朝から雨が降っていたのだが、その雨もいつの間にか止んでいて、あちこちに水たまりができている。
「じゃあ上がるね。お疲れ様、彩香」
フロントにいる彩香に声をかけ、帰路につこうとした。
「……あ! ちょっと待って、海愛」
今は客が少ないためヒマそうにしていた彩香が、海愛を呼び止める。
「……ん? どうしたの?」
足を止めて、彩香の方へ視線を向けた。
「あのさ……今度また温泉に行こうと思ってるんだけど、海愛もどうかな?」
「どこの温泉?」
「有馬温泉だよ。ここも前から行ってみたかったんだ」
彩香が少し興奮気味に答える。よほど行きたい場所なのだろう。
「……有馬温泉かぁ。私も興味あるけど……どうして行きたいの?」
すると、実に彩香らしい理由が返ってきた。
「豊臣秀吉の愛した名湯だから!!」
「あはは……」
思わず苦笑する海愛。秀吉にゆかりの温泉だから行きたいなんて、本当に歴史が好きなのだなと改めて感じた。
「……まぁ、単純に有馬温泉に入ってみたいっていうのが一番の理由だけどね。……で、どうかな? 一緒に来てくれる?」
「もちろん行くよ。そろそろ他の温泉にも入りたくなってきたところだしね」
草津温泉や鴨川温泉に行ってからすっかり温泉の魅力に目覚めた海愛。
彩香が有馬温泉に行くなら、ついていかない選択肢はない。
「今度は泊まりになっちゃうと思うけど、それでもいい?」
「そっか……有馬温泉って兵庫県だもんね」
東京からはかなり遠方にある温泉だ。新幹線を利用すれば日帰りできない距離でもないが、しっかり見て回ろうと思ったら現地で最低でも一泊はすることになるだろう。
少し悩んだ後、海愛は答えた。
「ちょっと不安だけど……大丈夫。泊まりで行こうよ」
「よかった。それじゃあ細かい日程は後日決めようか」
こうして新たな温泉旅行が決定する。
そこに近づいてくる人影。
その人物は海愛たちの前で足を止めると、ゆっくりと口を開いた。
「急にごめんね。二人とも、有馬温泉に行くの?」
驚いて声の聞こえた方へ顔を向ける。そこにはよく見知っている女子が立っていた。
「「……委員長!?」」
海愛と彩香が同時に口を開く。
その女子は、海愛たちのクラスメイトで委員長をしている高牧真穂乃(たかまきまほの)だったのだ。
彩香以上の豊かな胸に引き締まった身体。髪はロングで腰のあたりまで伸ばしており、白いヘアピンをつけている。目鼻立ちの端整さは間違いなく美人の部類に入り、少し小洒落た伊達メガネをかけていた。
非常に真面目な性格で責任感が強く、委員長にも自分から立候補したほどだ。
しかし他人に厳しいわけではなく、基本的に温和でユーモアもあり融通もきくため、クラスのみんなには慕われている。
伊達メガネも、なんとなくお洒落だからという理由でかけているそうだ。
「どうして委員長がここに……?」
彩香が訊ねる。
だがその質問に答える前に、真穂乃が呼称について指摘した。
「その前に肩書きじゃなくて名前で呼んでよ。私も二人のこと、名前で呼ぶから」
「あ、ごめんね。……じゃあ、真穂乃。これでいいかな?」
「うん。それでいいわ、彩香。……海愛も呼び捨てで呼んでくれていいからね」
真穂乃が海愛にも同じ要求をする。
「あ、うん……真穂乃」
彩香以外のクラスメイトを下の名前で呼んだことなどないので少し緊張したが、それでも以前のように逃げ出すことなく、ちゃんと要望に応えることができた。
そこまで人見知りが改善したのも、彩香が協力してくれたからだろう。
入学してから今日まで何度も橋渡しとなり、海愛と他の女子生徒との仲を取り持ってくれた。
そのおかげで今は同じクラスの女子とならまともに会話できるまでに成長したのだ。
もちろん人見知りを完全に直すにはまだもう少し時間がかかるだろうが、それでもこれは大きな進歩と言えるだろう。
真穂乃が再び彩香の方を向き、先ほどの質問に答える。
「……で、さっきの話だけど、単純にここのお風呂に入りに来たのよ。女子寮のお風呂が故障しちゃってね」
どうやら真穂乃は、普通に客として来たようだ。
「そういえば真穂乃は寮で生活してたね。お風呂が故障したってことは他の寮生にも影響が出てるんじゃない?」
「そうなのよ。……まぁ、一日で修理できるみたいなんだけどね。だから今日はこれから寮生がたくさん来ると思うわよ」
「そうなんだ……大変だけど良かったね。今日だけの辛抱で」
「うん。……それでさっきの話なんだけど、泊まりで有馬温泉に行くって本当?」
真穂乃が急に話題を変えた。
「聞いてたんだね。そうだよ。あたしと海愛の二人で行こうねって話してたところ」
「……ということはまだ詳しい行程や宿泊場所は決まってないのよね? だったら私の実家の旅館はどうかしら?」
「……真穂乃の実家?」
「自己紹介の時に言ったと思うけど覚えてない? 私、兵庫県神戸市出身で実家が有馬温泉街にある老舗旅館なの」
「あ……言ってたね、そんなこと」
彩香が、クラスで自己紹介した日のことを思い出す。
海愛もその日のことを思い出していた。
今年の四月。入学式の後の自己紹介で、真穂乃は自分が神戸出身で有馬温泉街にある旅館の跡取り娘だと話したのだ。
家業を継ぐことはほぼ決まっているが、その前に色々なことを学び大勢の人と出会って見聞を広めようと考えて単身上京したらしい。
だから、現在は寮暮らしなのだ。
「私、夏休みに実家に帰省する予定だからその時にどうかなって……一緒なら観光案内もしてあげられるわよ」
それを聞いた彩香が悩み始める。
「ガイドがいるのはありがたいけど、さすがにそこまでしてもらうのは気が引けるっていうか……海愛はどう思う?」
悩んだ末に海愛に意見を求めてきた。
「私もちょっと気が引けるけど……せっかくの申し出だから言葉に甘えてもいいかなって思う」
クラスメイトのせっかくの厚意なのだから、素直に受け取るべきだというのが海愛の考えだった。
その考えに彩香も同意してくれた。
「そうだね。じゃあお言葉に甘えて……観光案内よろしくね、真穂乃」
「ええ、任せて。最高に楽しい旅行にしてあげるから」
真穂乃がドンと胸を叩く。
かくして夏休みに海愛、彩香、真穂乃の三人で有馬温泉へ行くことが決定した。
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