第42話 神の力
「……っ! なんだ、この気配は……!」
キッチンに甲高い音が響く。紅茶を淹れていたアスベルは、思わずティーカップを床に落としてしまう。まるでいきなり、心臓を握り潰されたかのような感覚。あの地獄のような戦場でも、こんな気配を感じたことはない。
「あのピクシーか!」
アスベルはドアを壊すような勢いで、リリアーナの待つ部屋に戻る。そしてそこで……それを見た。
「……っ」
鉄面鉄鬼と恐れられたアスベルをして、思わず後退りしてしまいそうになる紅い瞳。老いの証ではなく、汚れのない純白を意味する真っ白な髪。アスベルは一瞬、その少女が誰だか分からなかった。
「まさか……リリィなのか?」
髪の色も目の色も纏う雰囲気も、何もかもが違う。けれどその服装と何より指に光る指輪は、昨日自分が渡したもの。
「貴様……リリィに何をした?」
アスベルは、リリアーナの隣で虚な目をして佇むピクシーを睨む。しかし彼女は、ただ笑うだけ。
「ああ、リリアーナ様! 何とお美しい!! やはり貴女の魂は、人間ごとに穢すことなどできない!! あは、あはは! あははははははは!」
壊れたように笑い続けるミミィ。リリアーナはそんなミミィの姿も、アスベルの姿も見えていないのか。透き通るような目でただ、何もない虚空を見つめ続ける。
「……リリィ、聞こえてないのか? 怪我は……ないよな?」
状況を理解できないアスベルは、ゆっくりとリリアーナの方に近づく。そんなアスベルに、リリアーナは……いや、白髪の少女は凍えるような声で言った。
「──ああ、煩わしい」
「……っ!!」
瞬間、屋敷の部屋が消し飛ぶ。目の前で爆弾が爆発したかのような衝撃に、アスベルの身体は屋敷を飛び出し草原を転がる。
「……くそっ、気を抜いた俺のミスだ」
アスベルに怪我はない。常人では死んでいてもおかしくない衝撃だったが、アスベルの肉体はこの程度で傷ついたりしない。アスベルはただ忌々しげに、青空に座す1人の少女を見上げる。リリアーナとは違う純白の髪と翼。まるでこの世界の支配者は自分だとでも言うかのような、尊大な瞳。
あれはもう、リリアーナではない。理由も手段も分からないが、あのピクシーがリリアーナに何かした。その結果が、この目の前の景色。そこまで理解して、アスベルは舌打ちし、立ち上がる。
「……化け物だな」
見るだけで全身に怖気が走るようなあの少女は、一体なんなのか。どうすればリリアーナは帰ってくるのか。アスベルには今の状況が、何一つ分からない。……いや、ただ一つ分かることがあるとするならそれは、このままでは駄目だということだけ。
「問題ない。俺はお前を守ると誓った。この程度で、1人にしたりはしないさ」
アスベルが地面を蹴る。まるで消えたのかと錯覚してしまうほどの速度。並の魔族なら、反応すらできないだろう。
「……っ!!」
しかし、少女が軽く手を払うだけで、アスベルの身体は近くの山まで吹き飛ぶ。最強の戦士であるアスベルも、神の前では単なる人間に過ぎない。
「……魔法か? いや、それにしては予備動作がなさ過ぎる……」
血の滲んだ唾液を吐き出し、アスベルは立ち上がる。身体には無数の切り傷があるが、あの程度の攻撃なら100回やってもアスベルを殺すことはできない。だから、問題があるとすればそれは……
「攻撃している気すらないのだろうな、あれは……」
小さく笑い、アスベルはまた地面を蹴る。そして同じように……いや、今度はもっと強い力で吹き飛ばされる。
「……そうか。魔力の塊だな」
それでアスベルは、リリアーナだった少女が何をしているのか、理解した。世界を循環する魔力というエネルギー。魔法とはそれを式に当てはめることで、あらゆる事象を起こす技術。アスベルに魔法の適性はないが、対策として最低限の知識は騎士団で学んでいる。
目の前の少女は、その魔力を何の式にも通さず、そのままただのエネルギーとして扱っている。そんな芸当ができる種族を、アスベルは知らない。魔法に長けたピクシーですら、不可能だろう。
そして何より彼女は、アスベルを敵として認識していない。飛び回る羽虫を手で払う程度の認識しか、彼女にはないのだろう。彼女がもし、アスベルを敵だと認識した場合、どうなるか……。
「…………」
少女はただ、何かを探るように遠くを見つめ続ける。一見、無防備にしか見えない姿。しかし長い戦場での経験が、アスベルに警鐘を鳴らす。これ以上は不味いと……。
「そんなことは、関係ない……!」
それでもアスベルは、地面を蹴る。何度も何度も地面を蹴り、ただ一心に守ると誓った少女に向かって手を伸ばす。いくら吹き飛ばされても、どれだけ身体が痛んでも、決して足を止めない。
「なんなんだ、あの男は……」
そう呟いたのは、この事態の元凶であるピクシーのミミィ。彼女は悪辣な人間から、リリアーナを解放したつもりでいた。イリアスの魅力の力があったとはいえ、彼女は明らかにアスベルを敵視していた。
だからミミィは、神の力を前に恐れ慄き逃げ出す人間の姿を見て、嘲笑ってやるつもりでいた。所詮、人間の想いなどその程度でしかないと。
なのに目の前の男は、事態もろくに分かっていないだろうに、それでも決して足を止めようとしない。ただひたすらに……がむしゃらに、リリアーナの側にいようと走り続ける。
ふと思い出すのは、リリアーナの笑顔。
決して自分には見せてくれなかった、あの幸せそうな笑顔。……ああ、きっとリリアーナは、彼のこのひたむきさにやられてしまったのだろう。
ミミィは初めて、リリアーナの気持ちを理解した。しかしそれでも、彼女の想いは変わらない。……今さらもう、変えられない。
「……関係ない。関係ない! 関係ない!!!」
ミミィは、ただ叫ぶ。アスベルの気持ちなんて、彼の生き方なんて、そんなものは知ったことではない。イリアスの思惑も、キードレッチの考えも、人間たちの国の事情も、全部関係ない。例えこの世界が滅びようと、そんなものは全てどうでもいい。
「リリアーナ様は、私だけの姫様じゃないと駄目なんだ!」
壊れたように叫ぶ少女。アスベルはそんなミミィなんて気にもかけず、ただ一心に少女の元へと走り続ける。
「届いた……!」
そしてようやく、アスベルの手がリリアーナの肩に触れる。アスベルはそのままリリアーナを抱きしめようとするが、その前に少女は言った。
「──馴れ馴れしく触れるな、人間」
少女が初めて、アスベルを敵だと認識する。神の力。世界を滅ぼすとされる、神の儀式の再演。少女の力のほんの一端。
少女は、言った。
「▪️▪️▪️▪️」
現代の生物では、発音できない
「────!」
少女の翼から、眩い雷が放たれた。それは近くの山を消しとばし、アスベルの身体を貫く。
「……ぐはっ!」
浴びたことがないような衝撃。いくら頑丈なアスベルでも、山を消し飛ばすような一撃を受けては、立つことはおろか意識を保つことすらできない。
「り、リリィ……」
流れ出る血は、既に致死量を超えている。それでもなお、アスベルは必死に手を伸ばし立ち上がろうとする。……が、辺りを染める自身の血で滑り転んでしまう。
「……あ、あ……」
初めて聴く死の足音。長い長い地獄のような戦場で、それでも感じたことのなかった明確な死。アスベルは初めて、死の恐怖を感じた。しかしそれでもアスベルは、一心不乱に手を伸ばす。
「り、リリィ……」
届かぬ星へと伸ばした手は、空を切る。戦場の鬼は無惨にも地面に転がり、もう立ち上がることすらできない。
「お、おれは……。お、まえを……けして……」
そこでアスベルの意識は消える。辺りに人の影などない山奥。アスベルの血肉を狙う獣はいても、助けてくれる人間なんてどこにもいない。
そうして、正しさではなく1人の少女の為に戦った戦士は、自らの血に溺れるように地面に倒れ伏した。
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