第21話 星空
リリアーナが部屋を出たのは、本当にただの直感だった。
「……なんかあいつ、女の匂いがしたわね」
アスベルがリリアーナを置いて外出することは、今まで何度もあった。どこに行っても目立つリリアーナは、街に着いたらすぐに宿に預けてお留守番。何度文句を言ってもそれは変わらず、隠れて外出してもすぐに見つかってしまう。
「ま、それだけあたしが輝いてるってことなんだけど」
でも、さっきのアスベルは今までと少し様子が違うように見えた。明日がいよいよ最後の日というのもあるかもしれないが、それを差し引いても……何か、変な感じがした。
「これであたしに隠れて女と会ってたら、流石に気に入らないわね」
目の前にこんなに可愛い女の子がいるのに、深夜にコソコソと別の女に会いに行く。傾国の魔女として、それは許せない。リリアーナは念入りに辺りを警戒しながら、宿を出た。
「……いないわね」
しかし、どこを探してもアスベルの姿はない。……仮に見つけられたところで、尾行なんてしてもすぐにバレてしまうだろう。それでもリリアーナはアスベルの姿を探して、そして……見つけた。
「あれは……」
騎士団の隊服を着た背の低い少女。リリアーナは、思わず身を隠す。そんなリリアーナの横を、怒りを噛み殺したような顔をした少女が通り過ぎていく。そして近くの路地裏から、声が聴こえた。アスベルの声とそして多分、先程の少女の声。
「…………」
リリアーナは、陰に隠れたまま聞き耳を立てる。
「あいつ、後輩の前でもあんななのね……」
後輩──エリスがアスベルに好意を向けているのは、その声を聴いているだけで分かった。その好意が、尊敬する先輩に向けられたものなのか。それとも、1人の男に向けられたものなのか。
リリアーナはそこまで分かって、息を吐く。
「なーにが騎士団内でも嫌われてる、よ。あんた、ただ単に鈍感なだけじゃない」
なんかもう、冷めちゃったし帰ろうか。そんなことを考えたところで、2人の声の雰囲気が変わる。どうやら戦闘になったようだ。鈍い音が響いて、最後にアスベルの言葉が聴こえた。
「……何よ、それ」
自分には、楽しさも幸せも必要ないという言葉。どうしてか、それが無性に腹が立った。自分はいつの間にか楽しいと思っていたこの旅。明日の別れも、本当はちょっとだけ名残惜しいなんて思っていたのに、アスベルは何も思ってなかった。
何より1番気に入らないのは、あいつが何かを楽しむということを、初めから諦めていること。そうやってあいつが冷めたことを言う度に、周りがどれだけ傷ついているのか。あの男は何も、分かっていない。
「決めた。あたしがあいつを、笑わせてやる」
傾国の魔女。サキュバスの中のサキュバス。リリアーナ・リーチェ・リーデンは自身の誇りにかけて、彼を笑顔にしてみせるとそう心に決めた。
◇
「こっちに行っても、何もないぞ? まだ歩くのか?」
木々の隙間を縫うように、山道を歩き続けるリリアーナ。ただでさえ夜の山は視界が悪く、歩きづらい。普段からそういった所を歩く訓練をしているアスベルはともかく、彼の前を歩くリリアーナはいつ転んでもおかしくない。
アスベルはそんなリリアーナを見ていられなくて、思わず声をかける。
「おい。お前の言いたいことは分かったから、そろそろ──」
「いいから、黙ってついてきなさい。あたし、一度この街には来たことがあるのよ。それでお気に入りの場所を見つけたから、あんたも連れてって──きゃっ」
「っと」
足を滑らしたリリアーナを、アスベルは慌てて支える。
「……ありがと」
「構わない。……が、俺もこの街には来たことがある。確かこの先には、星が綺麗に見えると評判の丘があるのだろう?」
「……なんだ。知ってるの」
「悪いが、一度見たことがある。その時も俺は特に、何も思わなかった。それに今日は曇っている。今から行ったところで、星は──」
「関係ない。……ほら? いいから行くわよ? 例えあんたがこの先の景色を知ってたとしても、そのとき隣にあたしはいなかった。他の誰かと見た時は退屈でも、あたしと見ればそうじゃない」
「凄い自信だな」
「自信じゃなくて事実よ」
そこまで言い切る彼女の姿は、どうしてか気高く見えた。何人もの男を騙し、国を乱すサキュバス。彼女は確かに悪政を敷いている貴族を没落させることもあったが、その本質が悪であることは変わらない。
或いはアスベルも、魔族の国との戦争のことがなければ、彼女が処刑になっても助けなかったかもしれない。
「…………」
それでも、どんな状況でも自分を曲げない彼女の姿は、確かに人を惹きつける。
「さ、行くわよ?」
アスベルの腕を強引に引いて、歩き出すリリアーナ。それはこの短い旅で何度もあったことで、でも……それも今日限りなのだと思うと、ほんの少しだけ名残惜しく感じてしまう。
「……なんてな」
アスベルは自嘲するように息を吐く。その目はやはり、いつと同じ濁った黒。色のない、鉄でできた鬼の顔。それは彼にとって本心を隠す為の仮面などではなく、彼の本心をそのまま表しただけのもの。
だから、アスベルは、本当は──。
「……これで満足か?」
木々を抜けた先に、開けた丘があった。近くには湖があり、虫の鳴き声と風に揺れる木々の音しか聴こえない。息を吸うと、身体が軽くなるようなそんな静かな景色。
しかし、残念ながら空は厚い雲に覆われていて、眩い星空はどうしたって見えやしない。
「お前が俺の為に動いてくれたのは、分かった。お前の気持ちは、十分に嬉しい。だから──」
「だから、なによ? あんたはほんと、何も分かってないわね」
リリアーナはアスベルから離れ、丘の上を歩く。月明かりもない夜。少し離れれば、互いの姿も見えなくなるような暗闇。そんな中でも、楽しそうに踊るように丘を歩く少女。
風に揺れる、きめ細やかな黄金の髪。飲み込まれてしまいそうな、深く澄んだ瞳。長い手足に大きな胸。まだ若干、少女のあどけなさを感じるが、それが逆に彼女の魅力を引き立てている。
男なら、誰でも目を奪われるような美しい少女。でも、それでもアスベルの心は……。
「……お前、何をしている?」
リリアーナは唐突に、上着を脱いだ。シミ1つない綺麗な肌が露わになる。
「魅了されなさい。喜びなさい。笑いなさい。このあたしに……落ちなさい。あたしは傾国の魔女。サキュバスの中のサキュバス。リリアーナ・リーチェ・リーデン。……貴方には特別に、あたしの全てを見せてあげるわ」
「……っ」
瞬間、リリアーナが淡い光に包まれる。真っ白な背中から、黒い翼が生える。黄金の髪の隙間から2本のツノが生える。長い尻尾が、誘うように揺れる。
人間に擬態していた、彼女の本当の姿。悪魔のような翼に、大きなツノ。そして、闇の中で揺れる長い尻尾。サキュバスとしての、彼女の本当の姿。美しさと悪辣さがないまぜになった、人の心を揺るがすサキュバスとしての本来の姿。
リリアーナは言った。
「──ほら、行くわよ?」
彼女は当たり前のように、アスベルに向かって手を差し出す。
「……行くってどこにだ?」
アスベルは珍しく困惑したように、首を傾げる。
「決まってるじゃない。──空よ」
リリアーナはアスベルの手を強引に掴んで、空を飛んだ。
「……っ。あんた意外と重いわね。ダイエットした方がいいんじゃないの?」
「鍛えているのだから、重いのは当然だ。それより……大丈夫なのか? サキュバスに、そこまでの飛行能力はないと聞いているが……」
「あたしは特別なの。ほら、もっと速く飛ぶから舌、噛まないようにね?」
リリアーナが速度を上げる。高度はどんどん高くなる。普通の人間なら、落ちたらまず助からないような高さ。それでも彼女はひたむきに、上へ上へと進む。
アスベルは無意識に、リリアーナの身体を抱きしめた。
「ふふっ」
リリアーナはなんだかそれがおかしくて、もっともっと速度を上げて、ただひたすらに空を目指す。
「……っ」
雲を抜けた。まるで重力から解放されたような錯覚。身体にこびりついた重たいものが、全て抜け落ちていくような感覚。
見えたのは、暗い夜空と星の海。
「どう、綺麗でしょ?」
と、リリアーナは笑った。
「……お前の行動は滅茶苦茶だ」
と、アスベルは笑わない。
冷たい空気。足の下で流れる分厚い雲。
「あ、流れ星」
そして、涙のように降り注ぐ、流れる星々。人間の身体では決して見られない、星々の世界。全てが初めてで、胸の奥が熱くなるような冷たくなるような、不思議な感覚。
「……そうか。こういう感じだったな」
アスベルは噛み締めるように、空を見上げる。
「もしかして、あたしに惚れた?」
「俺はそんなに軽くはない。……ただ、礼を言う、サキュバス。いや……リリィ。お前が見せてくれた景色は、とても素晴らしいものだ」
アスベルは空を見上げる。リリアーナは眩い星々を見上げることなく、すぐ側にいる男の横顔を見つめ続ける。……また、星が流れた。
「……あ」
男の横顔が、その時確かに緩んだ。それは初めて見る、アスベルの笑顔だった。
「ふふっ」
どうしてか、胸が高鳴った。その理由が、リリアーナにはよく分からない。そんなリリアーナの心境を知らず、アスベルはただ静かに星空を眺めながら、言う。
「お前と旅ができて……よかった。……ああ、いい旅だった」
アスベルの小さな笑みに、リリアーナは満足げな……今までで1番華やで幸せそうな笑みを浮かべて、いつもの言葉を口にする。
「当然よ。なんせあたしは──」
「傾国の魔女で、サキュバスの中のサキュバスなのだろう? ……知ってるさ。もう十分に知っている」
「人の決め台詞、途中で取らないでよね」
満天の星空の下、2人はただ笑い合う。明日の別れを前に、ようやくほんの少しだけ、2人の心が通じ合った瞬間だった。
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