第3話 楽しい誘惑



「やることはいつもと同じだ」


 リリアーナは古い錆びれた鏡の前で、小さく口元を歪める。


 リリアーナが入れられている牢屋は鉄格子こそあるが、普通に過ごす分には大きな問題はない。寝心地は悪いがそれでも清潔な木製のベッドに、同じく木製のテーブルと椅子。


 トイレは隣室に用意されており、この牢屋は彼女の為に特注されたものだった。普通では考えられない特別待遇。彼女が魔族の国で立場があることと、彼女に魅了された貴族からの支援があって、そんな横暴が許されていた。


「不能だろうと何だろうと関係ない。あたしに落とせない男なんて存在しない」


 鏡で自身の姿を確認し、リリアーナは笑う。その姿はどう見ても、人間にしか見えない。本来ならある筈の黒い尻尾と翼は、擬態の魔法を使って隠してある。


「そういうのがあった方が喜ぶ男もいるけど、あいつは見た感じそうじゃないしね。……国を守る騎士。魔族にいい感情はなさそう」


 魔族の国と人間の国は、ほんの2年前に友好条約を結んだばかりだ。だから未だに、魔族を恨んでいる人間は多い。


「ま、関係ないけどね。恨みも憎しみも、あたしの前ではぜーんぶ欲望に変わる」


 あの男──アスベルと名乗った男も、所詮は人間の雄だ。本能には逆らえない。


「あいつを落として、鍵を開けさせ、金を奪い国を出る。その後はまた、金だけしか取り柄のない馬鹿な貴族を騙して豪遊。……こんな牢屋とも、すぐにおさらば」


 リリアーナは笑う。その蠱惑的な笑みは、人間の本能を刺激する。


「大人しくしているようだな」


 そんな声とともに、アスベルが姿を現す。高い身長に濁ったような真っ黒な瞳。線は細いが、しっかりと鍛えられた肉体。


 彼は昨日と同じように少し離れた場所にある椅子に座り、本を読み始める。


「……ふふっ」


 そんなアスベルを見て、リリアーナは愉しげに笑う。こういう強情な男を落とす瞬間が、この世で1番楽しい。リリアーナは悪辣な笑みを浮かべたまま、アスベルに声をかける。


「おにーいさん。本なんか読むよりさ、あたしと一緒に楽しいことしない?」


「……昨日も言ったが、俺にその手の誘惑は通用しない」


「別に、エッチなことしようなんて言ってないじゃん。……ふふっ。お兄さんもなんだかんだ言って、あたしのこと意識してくれてるんだね。ちょっと嬉しいかも」


「勝手に言ってろ」


 あくまで淡々とした様子のアスベルを見て、それでもやはりリリアーナは笑う。


「そんな強情にならないでさ、あたしと一緒に遊ぼう? あたしもさ、こんな娯楽のない場所に閉じ込められて、1日中ぼーっとしてるのは辛いんだよね」


「なら今度、お前の分の本も持ってきてやる」


「それも楽しいとは思うけど、それよりもっと楽しい遊びがあるんだよ。今までの男の人で、これを嫌いだって言った人は1人もいないよ?」


「お前は何か、勘違いしているようだな」


 アスベルは本を置き、真っ直ぐにリリアーナを見る。


「俺の仕事は監視と護衛だ。お前の暇つぶし付き合う理由が俺にはない」


「でもでも、仕方ないじゃん。ここにはあたしとお兄さんしかいないんだし。それにこれから一月、お兄さんはずっとあたしの監視をしてくれるんでしょ? だったら少しは、仲良くなっておいた方がいいじゃないの?」


「必要ない」


「強情だなー。……分かった。じゃあ、1個だけお願いしてもいい?」


「鍵を開けろと言っても、無駄だぞ?」


「そんなことは言わないよ。そうじゃなくて、背中。なんか昨日、変な虫に刺されたみたいで痒いんだよね。だからお兄さんに、薬を塗ってもらいたいなーって」


「悪いが、薬なんて持ってない。そもそもサキュバス……お前は、治癒の魔法を使える筈だろう?」


「使っても効果がないから、こうしてお兄さんに頼んでるんだよ。……お兄さんの後ろ、棚があるでしょ? その棚に薬が入ってるって、前の監視の人が教えてくれたんだ」


「…………」


 言われて一応、背後の棚を開けるアスベル。リリアーナはどこか甘えるような笑みで、そんなアスベルの姿を見つめ続ける。


 とりあえず、距離を縮めて肌に触れさせる。別に今日1日で、どうにかする必要はない。この男が強情なのは理解できた。だから少しずつ、ハードルを下げていく。


 背中に触れて、腕に触れて、脚に触れて、胸に触れる。ゆっくりと丁寧に本能を刺激する。そうすればいずれこの男も、もっと触れたいという本能を抑えることができなくなる。


 そうなれば、後は好きなように料理できる。


「……確かに薬はあるようだが、自分で塗れるだろう? わざわざ俺に頼むな」


「あたし身体硬いからさー。背中に手が届かないんだよねー。だから、お願い! おにいーさん」


「……ちっ、仕方ないな」


 薬を持って近づくアスベル。リリアーナは無防備に服を脱いで、背中を晒す。


「わざわざ服を脱がなくてもいいだろ」


「この方が塗りやすいかなーっと思って。まあいいじゃん。早くお願い」


「仕方がないな。……虫刺されの痕なんてないぞ? 気のせいなんじゃないのか?」


「ほんと? まあでも、痒いのはほんとなんだよ。だからとりあえず、適当に塗っておいて。そうすればよくなると思うから」


 鉄格子の隙間から伸びたアスベルの手が、リリアーナの背中に触れる。


「んっ」


 わざとらしく声を上げるリリアーナ。


「…………」


 それでもアスベルは眉1つ動かさない。……が、その視線が胸の方に集まってることに、リリアーナは気がつく。


「……ふふっ」


 結局、同じだ。この男も他と変わらない。少しでも意識してしまえば、もう逃げられない。逃がさない。今日はこれ以上触れさせず、決して満足はさせない。もっともっと本能が高まるまで、生殺しを続ける。


「ありがと。もういいよ、お兄さん」


 そう言って服を着るリリアーナ。アスベルはそれでも目を逸らすことなく、リリアーナの胸を真っ直ぐに見つめ続ける。 



 ……ああ、やっぱり男なんて馬鹿しかいない。



 と、リリアーナが思ったところで、アスベルは言った。



「お前、太ってるな」



「…………は?」


 あまりに想定外な言葉に、リリアーナの思考が真っ白になる。


「食事は一定量しか与えていない筈だが……まさかお前、その辺のネズミとか食べてるんじゃないだろうな? ……サキュバスの生態は知らんが、病気になっても知らんぞ」


 真面目な顔でそんなことを言って、席に戻るアスベル。リリアーナは叫びたい気持ちを必死に抑え、言う。


「……それってもしかして、本気で言ってるの?」


「ん? 俺が知らないだけでサキュバスは、ネズミくらい簡単に消化できるのか?」


「じゃなくて。あたしが太ってるって、言った方」


「ああ。お前、少し胸が大き過ぎないか? それだといろいろと、窮屈だろう?」


「…………お気遣い、ありがとう」


 この男、後で絶対に殺す。そう心に決めて、とりあえず怒りを飲み込むリリアーナ。


 この完璧なプロポーションの価値を理解できないと男がいるとは、思わなかった。……そういえばこの男、昨日も『臭い』とか言いやがった。ほんと、デリカシーのなさが極まっている。


「……一応、今後の為に教えておいてあげるけどね」


 このまま黙るのも気に入らなくて、リリアーナは無理やりな笑顔を浮かべて、口を開く。


「あたしの胸が大きいのは、太ってるって言わないの。これは整ってるって言うの。あたしの胸は、この大きさだからいいの。分かる?」


「一応、覚えておこう。しかし、それが俺の今後にどう影響する?」


「あたしの今後に影響するって言ってるの! あんま馬鹿なことばっかり言ってると、あたしが怒る。理解した?」


「……分かった。気をつけよう」


 それだけ言って、また本を読み出すアスベル。


「……マジでなんなのよ、この男」


 惚けたフリをして、こっちをからかっているのだろうか? ……いや、どうもそうは見えない。背中に薬を塗った時も、めちゃくちゃ雑だった。この男は本当に、自分のことを何とも思っていない。


「というかそもそも、感情がないんじゃないの? 人形の方がまだ、生気のある目をしてるわよ。……あー、もうっ! なにか別の作戦を考えないと……」


 リリアーナはベッドに倒れ込み、大きく息を吐いた。


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