第50話 心の在処



「アスベル、君は彼女の為に死ねるか?」


 グランが言った言葉が、アスベルの中で蘇る。


「サキュバスクイーン……リリアーナ・リーチェ・リーデンの魂には、自分たちを滅ぼした亜人への怨嗟と憎悪が染みついている」


「だから俺をその亜人だと思わせ、彼女に俺を殺させせる。そうすれば……リリィの魂が戻ってくるかもしれない」


「あくまで、その可能性があるというだけだ。君がそれを鵜呑みにする必要はない」


「…………」


 アスベルは考える。自分の種族が何であるかなんて、そんなものは自分でも分からない。しかしそれでも、自分が死ぬことでリリアーナを救うことができるなら、そこに……後悔なんてない。


「現状、可能性があるのはそれだけなのでしょう? なら、やるしかない」


「……悪いな。君にはいつも、損な役回りを押しつけることになる。部下に死ねなんて言うのは、上官失格だよ」


「問題ありません。俺は、貴方の命令に従う訳じゃない。俺は俺の意志で、俺にできることをやるだけです。……そもそも俺は、騎士団をクビになってますからね」


「ははっ、そうだったな」


 グランは苦笑し、アスベルは真面目な顔で頷く。


 リリアーナを斬る必要がない。その事実に安堵してしまったアスベルに、もう迷いはなかった。自分が死ぬことで彼女が生きる世界を残せるのなら、後悔なんてカケラもない。


「死ぬのが俺でよかった」


 アスベルは、安堵するような顔で笑った。



 ◇



「……い、意味分かんない! どうして? どうして、あんたがこんな目に……!」


 しかしそんな事情を、リリアーナは知らない。暗い闇に飲み込まれて消えたと思ったら、目の前に血だらけのアスベルの姿があった。彼が自分の為に戦ってくれていたのはうっすらと伝わっていたが、こんなことになってるなんて想像もしていなかった。


 あちこちにある巨大なクレーター。思わず顔を顰めそうになる、何かが焼けた臭い。そして血だらけで今にも死んでしまいそうな、弱った1人の男。


 リリアーナは、困惑しながらただ叫ぶ。


「しっかり……しっかりして! あたしなんかの為に、あんたが死ぬ必要なんてない!」


 リリアーナは慌ててアスベルに駆け寄り、傷だらけの身体を回復魔法で治療する。怪我が骨折程度なら、すぐにでも治すことができただろう。しかし……アスベルの身体は、重体なんて言葉では言い表せないほどボロボロだった。


「ちが……違うのよ! あたしは……リリアーナ・リーチェ・リーデンなんて女は、初めから存在しなかった!! あたしの人格は……魔法でできた偽物なの! だから……だから、あんたが! あたしなんかの為に命を賭ける必要なんてない……! なのにどうして、こんなことに……」


 リリアーナは闇の中で、自分が生まれたルーツを知った。イリアスが魔法で作った人工的な人格。それがリリアーナという少女の正体。今ここにあるこの意識も、神の意識が消えたから浮き上がってきただけの偽物に過ぎない。



 ──そんなの、生きてるなんて言えない。



 そんなものの為に、そんな……紛い物の為に。ようやく笑えるようになってきたアスベルが、命を賭ける必要なんてない。リリアーナの目から、大粒の涙が溢れる。


「どうして……どうしてこんなに、上手くいかないのよ……」


 アスベルの意識は戻らない。鼓動はどんどん弱くなる。このままだと彼は、確実に死んでしまうだろう。偽物の自分なんかを愛したまま。何もない空っぽな人間が、魔法で作られた出来損ないの人格の為に死ぬ。



 ──それはなんて、馬鹿馬鹿しい喜劇なのだろう?



「駄目っ! そんなの、駄目に決まってる……!」


 自分が消えるのは構わない。自分が偽物なのも別にいい。自分が神の器としてずっと利用され続けてきたことも、もうどうでもいい。


 ただ、目の前のこの愚直なまでに真っ直ぐな男が、偽物なんかの為に死ぬなんてことがあってはならない。そんな救われない世界、あっていい筈がない!


「だから死ぬな! 死んじゃ駄目だよ、アスベル! あんたが死んだら、あたしはもう……」


 自由に飛べる翼があった。何にも囚われず、どこまでも自由に生きられるのだと、そう信じていた。でも、ここでアスベルが死んでしまったら、残るのは偽物だけ。役目も価値も失った、ただの抜け殻だけだ。


 もう生きる意味なんてない。


 ……自由なんて、どこにもない。


「……嫌だ。嫌だよ、アスベル! あたしを……あたしを1人にしないで!! こんなあたしの為に、あんたが死ぬなんて間違ってる!! 目を開けてよ! アスベル!! アスベル!!!」


 倒れたアスベルに覆い被さる。ほんの微かに聴こえる鼓動。徐々に冷たくなっていく身体。死神の足音が近づいてくる。どうしてか、幸せだった日々を思い出す。彼の不器用な笑顔が、頭にこびりついて離れない。



 ──ふと、暖かな風が吹いて、声が響いた。



「──泣くな、リリィ」



 いつもと変わらない淡々とした声に、リリアーナは顔を上げ叫ぶ。


「アスベル! 生き……生きてたのね! よかった……」


 安堵するリリアーナに、アスベルは苦笑するように口元を歪め、顔を横に振る。


「俺は……もう駄目だ。無茶を……し過ぎた。ただ、お前があまりに……泣くものだから……最後に……言ってやらないと、と思ってな……」


「そんな……なんで! なんでよ! なんであんたが死ななきゃいけないの! あたしは全部偽物で、生きてる価値なんてないのに、なんで……!」


「……構わないさ。お前は……言ってくれただろ? 俺の心に、なってくれると……。あの言葉は……嬉しかった。俺が、死んでも、俺の心は……お前の胸に、残り続ける。なら……後悔は、ない」


 アスベルは手を伸ばす。リリアーナの綺麗な黄金の髪を撫で、彼は笑う。それは……それは今まで見たことがないくらい幸せそうな笑みで、リリアーナの瞳からまた涙が溢れる。


「だから……生きろ、リリィ。お前の心が、偽物でも……そこに確かに、俺の心が……生きている。……笑えない俺の代わりに、お前が笑って……生きてくれれば……俺は……満足だ」


「いや……嫌だよ! 嫌だよアスベル!! そんなのあたし……嫌だよ!!」


「大丈夫。お前なら……大丈夫だ。なんせお前は、傾国の……魔女。サキュバスの中の……サキュバス。リリアーナ・リーチェ・リーデンなの……だから……」


「そんな……そんなこと、言っても……!」


 アスベルは最後の力でぎゅっとリリアーナを抱きしめ、彼女の耳元で囁くように告げる。


「ありがとう。お前に出会えて……よかった」


 そこでアスベルの身体から力が抜ける。どれだけ声を荒げて叫んでも、彼はもう答えてくれない。リリアーナは泣いた。泣いて泣いて、ただ泣き続けて。どれだけ泣いても、胸の痛みは消えてくれなくて。


 それでリリアーナは、気がついてしまった。


「ああ、あたしはちゃんと……生きてる」


 たとえは始まりが偽物でも、培ってきたことは嘘にはならない。彼を愛したこの心は、決して偽物などではない。……この胸の痛みが、それを証明していた。



 そうして、神と人の戦いは1人の勇敢な戦士の心によって決着した。


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