第49話 神殺し



 アスベルが地面を蹴る。その速度は、このまえ戦った時とは比較にならない。前回の時のアスベルは、剣すら握っていなかった。彼には最後まで、この少女……リリアーナを傷つける意思はなかったから。


「その程度の力で神を名乗るな! 半端者が──!」


 けれど今は違う。アスベルは明確な殺意を少女に向けている。その動きには、一切の迷いがない。恐ろしいまでに黒く染まった瞳を見て、少女は思い出す。自分たち──サキュバスクイーンという種族を死に追いやった、色のない悪魔のような種族──亜人たちを。


「ああ! ようやく見つけた……! 貴様たち……貴様を殺さなければ、我が復讐は終わらない!!」


 何千年ものあいだ増幅し続けた数多の怨嗟が、今ここで解き放たれる。世界を滅ぼしても、弱い種族をいくら殺しても、決して晴れることのない怨嗟。この化け物どもを殺し尽くさなければ、安心して眠ることすらできない。


 彼女が今日まで動かなかった理由。それは怨嗟の底に根付いた、亜人への恐怖。考えなしに暴れてしまえば、また彼らに滅ぼされるかもしれない。少女自身も自覚していないその恐怖が、少女の胸の内を震わせる。


「死ね死ね死ね死ね!!! 死んでしまえぇぇ!!!!」


 空中に数多の魔法陣が展開される。そのどれもが、既に失われてしまった過去の遺物。天から降り注ぐ雷なぞ比較にならない神の雷撃が、周囲の景色を消し飛ばしながらアスベルに迫る。


「──はっ。眩しいだけだ!! そんなものッッッ!!!」


 雷撃が、大剣で両断させる。人間業ではない。少女は必死に魔法を連発するが、アスベルは決して止まらない。


 炎に焼かれ、水に溺れ、雷に貫かれ、それでも彼は決して歩み止めず、ただがむしゃらに少女に向かって走り続ける。


「か、怪物が……! いつの時代も貴様らだけは、許し難い……!!!」


 少女の背後に、一際大きな魔法陣が展開する。


「──っ!」


 魔力が集まる。流石のアスベルも足を止める。集まる魔力の質も量も、今までとはスケールが違う。


「光か……!」


 魔法陣の形から、どんな魔法が来るのか予想したアスベルは、その発動前になんとか少女を叩こうと距離を詰める。


 しかし、声が響いた。まるで信託のように。少女からではなく、空から。或いは世界そのものから。罪人を焼く神の声が、静かに響く。



「──キリア・ルミナス」



 魔法陣からではなく、天空から降り注ぐ巨大な光の矢。それは絶え間なく、終わることなく、獲物が動きを止めるまで延々と降り注ぐ、神の捌き。


「──っ!!!」


 アスベルが膝を折る。倒れ伏し、地面にはいつくばってもなお前に進もうとする彼を、光の矢が貫き続ける。


「跪け。崇めよ。我は神だ。この世界を統べる支配者なるぞ。貴様らのような頑丈なだけが取り柄の蛮族が、剣を向けていい相手ではない!」


 光の矢は、止まらない。アスベルを飲み込み周囲に巨大なクレーターを作り、さらにそのクレーターをもっと巨大なクレーターが飲み込む。


 豊かだった草原は消え去り、2人が過ごした屋敷を飲み込み、山も湖も消えて失くなる。アスベルとリリアーナが過ごした静かな日々は、神の一撃によって完全に消滅した。


「……ふぅ」


 少女が息を吐く。雄大な山々に囲まれた豊かな自然は、神の怒りによって、無惨に飲み込まれ消えた。残ったのは底が見えない巨大なクレーターのみ。ここまでされて生きていられる生物なぞ、この世界には存在しない。


 これが、神の力。人間や魔族がどれだけ束になろうと関係なく焼き尽くす、世界に対する罰。何千年という月日をただ呪い続けた、サキュバスクイーンという種族の怨嗟の結晶。


 それを止められる存在なんて、この世界には──。



「……なんだ。もう、終わりか」



「──!」


 地獄の底から響くような声。聴こえる筈のない、感情を感じさせない冷たい声。あの深いクレーターの底から、こんな小さな呟きが届く筈がない。それでも神の鼓膜が震えたのは、種に根付いた恐怖からか。


「……なんなんだ。なんなんだよッッ!!! お前は……!!!」


 叫ぶ声は怒りか、恐怖か。それが形を成す前に、地獄の底から男が駆ける。


「いい加減、退け!! はなからお前に用などない……!!!!」


 這い上がる悪魔。身体中がボロボロで、いつ死んでもおかしくはない。こんな状態で身体がまともに動く筈もなく、そもそもあれだけの魔法を受けて原型が残っているのがおかしい。


 これが、亜人という種族の力なのか。それともこれが、アスベル・カーンという男の力なのか。分からない。アスベル本人にも、分からない。彼はただ一心に、1人の少女に向かって手を伸ばす。


「……ッッッ!」


 神は、恐怖した。そのひたむきな、神は確かに恐れた。


「お前のような存在を赦すわけには──」


「──遅い!!」


 展開した魔法陣を両断し、アスベルの剣が少女へと届く。


「くっ……!」


 少女は反射で自身の身体を魔力で守るが、衝撃は止められない。少女の身体はクーレターの外まで吹き飛び、その小さな身体は巨大な岩にぶつかり、少女は赤い血を吐く。


「かはっ……!」


 駄目だ。勝てない。明らかにスペックでは凌駕している。あの程度の人間、本来なら百万回だって殺せる筈だ。


 なのに、このままだと殺される。数千年前と同じように。あの時と、同じように。そんなことは許されない。何千年と続いた怨嗟が、こんなたった1人の人間に止められることなぞ、あってはならない。


 少女は再度、魔法陣を展開する。


「……まだ、続ける気か」


 しかし駄目だ。男が迫る。どの魔法なら通じる? 何をすれば止められる? 敵は既に血だらけで、全身がボロボロだ。あんなものを、恐れる必要はない。神の力を使えば、あんな人間、簡単に殺せる。


 ……そのはず、なのに。


「……来るな。来るな来るな来るな来るなッッッ!!!!!」


 叫ぶ。子供のように少女は叫んで、ただ魔法を連発する。それらは確かにアスベルに直撃するが、彼の足は止まらない。


 ドクンドクンと心臓が跳ねる。魂に染みついた恐怖が、彼女の心を震わせる。


「あああああああああああああ!!!!!!」


 少女は最後に、一際大きな魔力をぶつける。……が、それでもやはりアスベルは止まらない。


「あ、あ、あああ……」


 力なくその場に座り込む少女。アスベルはそんな少女に手を伸ばし、何かを飲み込むように喉を震わせる。そして彼は、彼らしい不器用な笑みを浮かべて、言った。



「──悪い、リリィ。約束は守れそうもない」



 まるで、全てをやり遂げたような顔。そんな顔で、アスベルは倒れた。同時に、復讐相手を殺すという役目を終えた神の意識は、プツンと電源が落ちるように消えてなくなる。


 残ったのは嘘のような静けさと、消えてなくなる筈だった偽物の少女の意識だけ。


「…………え?」


 唐突に浮上したリリアーナ・リーチェ・リーデンの意識は、目の前の現実の意味を理解することができない。



「──アスベル。君は彼女の為に死ねるか?」



 グランが言ったその言葉。アスベルは見慣れた少女の顔を見て、最後に安堵するような顔で笑った。


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