第7話 助け



「お前に1つ頼みがある」


 そう言ったアスベルの顔は、一見、普段と変わらない無表情に見える。……けれど、人を観察することに長けたリリアーナは気がつく。よく見ると、瞳の奥に動揺と不安が見える、と。



 ──もしかしたら、チャンスかもしれない。



 リリアーナは指輪から手を離し、アスベルに声をかける。


「頼み……頼み、ね。このあたしに頼みごとをしたいって言うなら高くつくけど、分かってて言ってるのよね?」


「ああ、分かっているさ」


「具体的には?」


「今度、高い店でアップルパイでも買ってこよう」


「……馬鹿じゃないの? そんなのでこのあたしが、動くわけないでしょ」


「なんだ、駄目か」


 後輩はそれで喜んでくれたのだがな……と、アスベルは首を傾げ、真っ直ぐにリリアーナを見る。


「では、聞こう。お前の望みはなんだ?」


「決まってるじゃない。この状況であたしが望むことは、1つだけ」


 リリアーナは視線を牢屋の鍵の方に向ける。


「ここから逃がせと、そう言いたいのか?」


「貴方の想像に任せるわ。貴方にも立場があるでしょうしね。ただ、直接口にはできなくても、鍵を閉め忘れることくらいあるかもしれないでしょ?」


 試すような顔で笑うリリアーナ。アスベルはそれに、間髪入れずに答える。


「分かった。では、この話はなかったことにしてくれ」


 一考の余地もなくそう言って、アスベルはまたいつもの席に戻り読書を始める。


「…………え? それで終わり?」


「ああ。散歩に連れ出すくらいならまだしも、お前を逃すことはできない」


「いやいやいや。何か頼みたいことが、あるんじゃないの? あんたみたいな奴があたしを頼るってことは、相当なことがあったんでしょ?」


「それでも俺は、俺の正しさを裏切るような真似はできない」


「でもそれで、後悔するかもしれないじゃない」


「後悔など、今までの人生で一度たりともしたことはない。俺は常に、俺の正しさに従って生きている。やっていいことと駄目なことの区別は、つけているつもりだ」


「……っ」


 その瞳はやはり、いつもと同じ色のない黒く濁った瞳。獰猛な魔族でも、こんな瞳をする奴はいない。リリアーナは呆れたように息を吐いて、ベッドに倒れ込む。


「……で? 何があったの?」


「何の話だ?」


「あんたの話よ。あたしに何か、頼みたいことがあるんでしょ?」


「その交渉はもう決裂した」


「話くらいは聞いてやるって言ってんの。ほんとあんた、堅物ね。そんなんじゃモテないわよ?」


「別に、俺がモテる必要などない」


 あくまで淡々としたアスベルの言葉。その態度には呆れるが、それでもリリアーナはアスベルの話を聞いてやることにした。


 ここでこいつに恩を売っておけば、後で何かの役に立つかもしれない。


 そんな打算と、少しの好奇心。そんな2つの内心を隠して、リリアーナは寝転がったままアスベルの方に視線を向ける。


「…………」


 アスベルは悩むように一瞬だけ目を瞑り、言った。


「……猫が、病に罹ったようなのだ」


「猫? あんた、猫とか飼ってんの?」


 予想外な言葉に、リリアーナは思わず身体を起こす。


「いや、俺ではない。俺はこの国を守る騎士だ。いつ死んでもおかしくはない。ペットなど飼えない」


「じゃあ、なに?」


「世話になっている武器屋の主人が、猫を飼っているのだ。しかしどうも最近、その猫の調子が悪いらしくてな。ここ数日は、ろくに餌も食べていないようなのだ」


「そんなの、病院にでも連れて行けばいいだけじゃない。この国は進んでるみたいだし、動物の病院くらいあるでしょ?」


「……残念ながら、動物の病院などというものはこの国には存在しない。無論、金さえ払えば診てくれるモグリの医者はいるが、腕は確かじゃない」


「だから、治癒の魔法が使えるかもしれない魔族……サキュバスであるあたしに、診て欲しいと」


 魔法を使える人間は、そう多くはない。特に治癒ともなれば、王国が直々に召し抱えるほどの魔法使いしか使うことができない。単なる猫に魔法を使ってくれる人間なんて、この国には存在しない。


 しかし魔族は、そうではない。魔族は生まれながらにして高い魔法への適性を持っており、リリアーナもまた多種多様な魔法を操ることができる。


「だがしかし、お前をここから出すことはできない」


「猫はどうするの、諦めるの?」


「ああ。他に手段がないのなら、諦めるしかないだろう」


「……あんたはそれでいいの?」


「俺の感情なぞ、問題ではない。ここでお前を逃がせば、困るのは俺だけではない。できることに全力を尽くすのは当然のことだが、自分の埒外のことに救いを求めるのは愚か者のすることだ」


 冷たい目。人間の癖に人間じゃないみたいな目をする男。表情の変化が少ないリザードマンより、何を考えているのか分からない。人の心を読み取ることに長けたリリアーナですら、彼が本当に猫を心配しているのかどうか、判断することができない。


「……気に入らないわね」


 ただ、彼女は思った。自分の感情に蓋をして、正しいかどうかでしかものを考えないこの男は、いったい何の為に生きているのだろうか? と。


 楽しみも喜びもなく、いつも死んだような目をするこの男は、何を楽しみに……何の為に生きているのだろう?



『──リリアーナ。貴女は選ばれた存在なのです。貴女は私の……私たちの悲願を叶える義務がある。分かっていますね?』



 ふと思い出した、嫌な言葉。リリアーナは苛立ちをぶつけるように、ベッドを叩いて立ち上がる。


「ほら、行くわよ?」


「突然なんだ? トイレなら隣にあるだろう」


「ちゃうわ! ……じゃなくて、猫、治して欲しいんでしょ?」


「だが、お前を逃すことはできないと──」


「いいわよ、もう。あんたが見張ってれば、あたしは逃げられない。……それに、ここの簡素な食事にも飽きてきたところだし」


「お前は何を言っている……?」


 理解できないと目を細めるアスベルに、リリアーナは鉄格子を叩いて言う。


「アップルパイ、奢ってくれんでしょ? 今はそれでいいから、早くあたしを猫のところに連れて行きなさい。ほら、あたしの気が変わらないうちに! 早く!!」


 どこか自暴自棄に見えるリリアーナ。アスベルは何かを考えるように目を瞑り、そして……牢屋の鍵を開けた。


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