第41話 理由



「人間の国に戻るというのは本当ですか! リリアーナ様!」


 数ヵ月前の魔族の国。監視の目がないことを確認してから告げられたリリアーナの言葉に、ミミィは思わず大きな声を出した。


「シー! そんな大きな声出さないで、部屋の外の見張りに聴こえる!」


 そんなミミィを諌めるように、リリアーナは口元に指を当て首を横に振る。


「す、すみません。ですが、リリアーナ様。今の状況で人間の国に戻るというのは、失礼ながら少し……考えなしなのではないかと……」


 ミミィの言葉は正論だった。この前だって、アスベルの助けがなければまず間違いなく、魔族の国に戻る前に殺されていた。あれからまだ、大した時間は経っていない。今、人間の国に戻るというのは自殺志願以外のなにものでもない。


「あたしだってそれくらい、分かってるわよ。あんなに苦労して帰ってきたのに、わざわざ戻るなんて馬鹿だって言いたいんでしょ?」


「そこまでは言いませんが……。そもそもこの国の見張りも、以前よりずっと厳重です。いくらリリアーナ様でも、見張りを掻い潜り国を出るというのがまず、難しいかと……」


 リリアーナの魅了の力があれば、1人2人なら籠絡することはできるだろう。しかし魔族も馬鹿ではない。そうならないよう常に見張りは複数で、どんな小さな異常でも発見すればただちに報告するよう義務づけられている。


「それはまあ、これを使えばどうにかなるわ」


 不安そうな顔をするミミィに、リリアーナは人差し指にはめられた指輪を見せる。


「それは……何かの魔道具なのですか?」


「これはあたしの奥の手。これを使えば、一時的にあたし魅了の力を数十倍に引き上げられる」


「……! まさかそれは、代々サキュバスの姫に受け継がれてきた、至宝の……」


「知ってるのね? これは人形にだって意思を与える至宝の指輪。これを使って見張りを落とし、あたしはこの国を出る」


「…………」


 ミミィは言葉に詰まる。確かにその力を使えば、リリアーナは国から出ることができるかもしれない。でも、それは……


「ですが、リリアーナ様。今さら人間の国に戻って、どうするおつもりですか? 戻ったところで、前のように自由に振る舞えるとは思えません」


「それくらい、分かってる。それでもあたしは、戻ると決めたの」


「……どうか、お考え直しください。リリアーナ様のお気持ちも分かりますが、今は我慢の時かと。きっとあと数年もすれば、人間の国との関係も変わります。そうなればまた、自由に振る舞える日が来る筈です」


 ミミィは何とか説得しようと、リリアーナを見る。けれどリリアーナの表情は変わらない。彼女はもう既に、覚悟を決めているように見えた。


「……あの人間の為ですか?」


 と、ミミィは言った。


「さあね」


 と、リリアーナは答える。


「確かにあの人間には、世話になりました。彼がいなければ、私たちがこうしてこの国に戻ってくることは、できなかったでしょう。……ただ、それでも、相手はただの人間です。人間なんかの為に、リリアーナ様が命を賭ける必要はない筈です!」


「そうね。人間なんて、あたしにとってはただのカモだし。命をかけて助けるなんて、馬鹿馬鹿しいわ」


「だったら、どうして……」


 ミミィは意味が分からないと、眉をひそめる。リリアーナは自嘲するような顔で、笑った。


「あたしがそうしたいって思ったからよ。あたしはいつだって、その想いだけで走ってきた。だからこれからも、あたしはあたしの心に従う。どんな状況でも、それは変わらない」


 リリアーナの真っ直ぐな瞳を見て、ミミィは過去を思い出す。ピクシーは魔族の中でも、特に身体が小さい。そのせいか、他の魔族から下に見られることも多い。それにピクシーの代表の性格が温厚すぎるせいで、魔族の国でのピクシーの立場はとても弱かった。


 特にミミィは両親を幼い頃に亡くしていることもあって、ピクシーの中でも浮いていた。そんなひとりぼっちだったミミィに、リリアーナは言った。


『貴女、凄く可愛いわね。その羽、虹色でとっても綺麗』


 そんな理由で、リリアーナは自分のお付きにミミィを選んだ。……嬉しかった。サキュバスに魅了の力があるというなら、ミミィはとっくの昔に魅了されていた。


 そんな自分にとって全てであるリリアーナが、人間なんかの為に命を賭ける。それはあまりに……残酷だ。だって、ミミィの両親を殺したのは、他ならぬ……人間なのだから。


「悪いけど、あたしはもう決めたから」


「ならせめて、私もお供に……」


「駄目。貴女はここに残って。生きて帰れる保証はないんだから、貴女が付き合う必要はないわ」


「ですが、あたしはリリアーナ様のお付きで、常に貴女の側にいるようにと、イリアス様から──」


「そういうのはいいから」


 ミミィの言葉を断ち切り、リリアーナは言う。


「あたしは貴女を、友達だと思ってる。だからこうして、ちゃんと別れの挨拶をしておきたかった。……それにあたしは、死にに行くわけじゃない。あたしはいつも通り、あたしのやりたいようにやるだけ。だから貴女も、あんなうるさいオニババの言葉なんて忘れて、自分の好きなように生きなさい」


 リリアーナは笑う。何があっても変わらない……決して穢れることのない昔と同じ表情で、リリアーナは真っ直ぐにミミィを見つめる。


「あたしはいつでも、貴女の幸せを祈ってる。……じゃあね」


 それが、ミミィとリリアーナが交わした最後の言葉。結局ミミィは最後まで、『行かないで』とも『連れて行って』とも言うことができず、リリアーナが国を出ていく姿を遠目に眺めることしかできなかった。



 自分はこれから、どうすればいいのだろう?



 そんな問いが、ミミィの頭を埋め尽くす。リリアーナが国を出て数ヶ月経った今でも、その問いの答えは出ないままだった。


「ようやく来ましたか、ミミィ」


 そんな時、ミミィを呼び出したのはリリアーナの母親であるイリアス。彼女はことあるごとにミミィを呼び出し、リリアーナを逃したことを責め立てた。この前、キードリッチが仲裁に入ってくれたお陰で、イリアスもミミィを強く責めることはできなくなったが、ミミィの立場の弱さは変わらない。


 そんな中での、呼び出し。ミミィは嫌な予感を覚えながらも逆らうことができず、イリアスの執務室までやってきた。


「そう固くならなくても、構いません。もう貴女を、叱責するつもりはありませんから」


 萎縮するミミィを見て、イリアスは不自然なまでに優しい笑みを浮かべる。


「では、何故私を呼び出されたのですか? イリアス様」


「貴女に、人間の国に出向いて欲しいのです」


「……!」


 その言葉に、ミミィの全身に電流が走ったような衝撃が走る。


「まさか私に、リリアーナ様を連れ戻せ、と」


「あれを連れ戻すのは、もう無理でしょう。……まさかあの指輪まで使い逃げるとは、流石のわたくしも考えておりませんでした。しかもどうやらあの子は、人間の男を助け行方をくらませたとか……。あの子は生き方は、欲望に溺れることしかしなかった古いサキュバスと同じ。あれは、生きているだけでサキュバスという種族を貶めている」


「……では、私になにをしろと」


 その問いに、イリアスは笑う。その笑みは何だか少しだけリリアーナに似ていて、ミミィは思わず視線を逸らしてしまう。


「貴女には、きっかけを作って欲しいのです」


「きっかけ……ですか?」


「そう。神の魂を……あの子の身体に卸す為のきっかけ」


「……! そんなことをすれば、リリアーナ様は……!」


 動揺するミミィに、イリアスはあくまで淡々と言葉を告げる。


「確かに、あの子の魂は消えるでしょう。或いはそれで、人間の国が滅びてしまうのかもしれない。……でもこれは、仕方がないことなのです。これ以上、キードリッチや人間に力を持たせる訳にはいきません。リリアーナには、サキュバスの未来の為に犠牲になって貰うのです」


 イリアスはゆっくりと、ミミィの方に近づく。ミミィはどうしてか身体が重くて、逃げることもイリアスから視線を逸らすこともできなくなる。


 ……それこそまるで、魅了されているかのように。


「あの子は貴女を捨てました。ずっと付き従ってくれた貴女を捨てて、下劣な人間の男を選んだ。貴女はそれでよいのですか?」


「それは……」


「今ごろ貴女の憧れたリリアーナは、人間の男にいいようにされていることでしょう。貴女はそんな下劣な人間から、あの子の魂を救い出すのです」


「リリアーナ様を……私が、救う……」


「そうです。これは貴女にしか、できないことなのです。だから、頼みましたよ? ミミィ」


 そこでイリアスは、ミミィに小さな鍵を手渡す。


「これをあの子に向け、神言しんごんを呟けばあの子の魂は穢れのない空へと旅立てることでしょう。いいですか? ミミィ。他の誰でもない貴女が、リリアーナを救うのです」


「私が、リリアーナ様を……」


「数日後、人間の国にいけるよう手配してあります。貴女はただ、自分の役目を全うすればいい。……分かりましたね? ミミィ」


「はい。承知いたしました、イリアス様。私がリリアーナ様を、あの忌まわしき人間から……解放します」


 そう答えたミミィの目は虚で、なにも映してはいなかった。


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