第39話 約束



 リリアーナとアスベルの2人が住む屋敷の近くにある小さな丘からは、思わず手を伸ばしたくなるような星空が見えた。どんな悩みも、世界の命運すら小さなことに感じる壮大な風景。



 2人も初めてこの丘に来た時は、息を呑んだ。



 ……しかしそれも、何度も見れば慣れてしまう。この屋敷に来た当初は毎晩のように2人して星を見上げだが、最近は夜が寒くなってきたこともあり、ほとんど足を運ばなくなってしまった。


「あんたがあたしを誘うなんて珍しいわね? アスベル」


 冷たい夜風が、リリアーナの黄金の髪をなびかせる。星々の切れ間を、眩い黄金が染める。


「少し、お前と話したいと思ってな」


 長い山道を歩いて来たとは思えないほど疲れが見えないアスベルは、いつものように淡々と言葉を返す。リリアーナは、呆れたように息を吐いた。


「ま、いいけどね。ここの星はいつ見ても綺麗だし。今日は雲がないから特に……綺麗」


「そうだな」


「そうだな、じゃなくて! そこは君のほうが綺麗だよ、とか言うところなの。はい、やり直し!」


 リリアーナの不満そうな顔を見て、今度はアスベルが息を吐く。


「……綺麗だよ。どんな星よりもお前の方がずっと綺麗だ」


「感情がこもってないけど……まいいわ。今日はそれで、許してあげる」


 リリアーナは優しく口元を緩める。遠くから虫の声が聴こえてくる。アスベルは星空から視線を外し、リリアーナを見た。


「実はお前に、謝らなければならないことがある。俺はずっとお前に……嘘をついていた」


「何よ、改まって。実は奥さんがいるとかだったら、引っ叩くわよ?」


「違う。そうではなく……俺には、幸せというものが分からないんだ」


 リリアーナは首を傾げる。そんなことは、ずっと前から知っていると。アスベルは淡々と言葉を続ける。


「俺はこの手で、実の両親を……いや、アスベルという少年の親を殺した。きっとその時に、俺の心は壊れてしまったんだ」


「あんた、いきなり何を……」


 困惑するリリアーナを無視して、アスベルは続ける。


は研究者だった。研究の為なら、何だってするような人たちだった。善良だったが、善悪の区別がつけられない人間だった」


 アスベルはゆっくりと丘を歩く。リリアーナは黙って、その背に続く。


「実験をした。人を使った人体実験。神の力を再現しようとした彼らは何人もの人間を犠牲にし、1つの街すら消し飛ばし、結局……失敗した。アスベルの友人も隣人もアスベル自身も、誰も彼もが死に絶えた。それでも彼らは、次こそは上手くいくと笑っていた」


「だからあんたは、両親を……殺した」


「俺の1番最初の記憶は、両親の死に顔だ。産まれたばかりで心すらなかった俺は、それでも彼らを放置してはいけないということだけは、分かった」


「……そう。あんたが正しさに拘るのは、そういう理由だったのね。自分の行為の正しさを証明し続ける為に、あんたは剣をとった」


 そこでアスベルが振り返り、リリアーナを見る。彼はゆっくりと、首を横に振った。


「最初は確かに、お前が言った通りだったのかもしれない。俺は自分の正しさを証明する為に、騎士団に入ったのだから。……でも、違ったんだ。俺はとっくに……壊れていた」


 アスベルはまた、空を見上げる。夜の闇が邪魔をして、リリアーナからはアスベルの表情が見えない。


「俺は、何も感じられなくなっていた。両親を殺したあの日から、あの赤い血溜まりに溺れた時から、俺の心は死んでしまった。……何をしても、楽しいと感じない。何を食べても、美味しいと感じることすらない。どれだけ傷ついても、辛いとも痛いとも苦しいとも思わない」


「……もしかして、あんたが何でもかんでも唐辛子をかけて食べるのって……」


「そうだ。俺には食べ物の味が分からない。前にインポだと言ったが、それだけじゃないんだよ。本当の俺は全身が不感症の、壊れた人形でしかない」


「……っ」


 リリアーナは思わず、アスベルの頬を引っ叩いてしまいそうになる。自分でも、どうしてそんなことをしようと思ったのか、分からない。それでも彼女は手をぎゅっと握りしめ、なんとか感情を抑える。


「だから俺は、正しさに縋った。だって正しさは、人の気持ちが分からない俺にも平等なものだから。いろいろな本を読んで自分の中に正しさというルールを作り、無心でそれを守り続けた。そうすることで何とか、人間の輪に溶け込み……社会の中で生活することができた」


「でもあたしが、あんたのその正しさを無理やり壊した。……もしかしてあんたは、あたしを……憎んでたの?」


「さあな。自分の中に、憎むなんて感情があるのかどうかすら、もう分からない。ずっと縋っていた正しさを壊されて、それでも俺は変わらず生き続けることができた。お前を恨んでいたなら、きっとそうはならなかった」


「……そ。じゃあいい。あたしの料理を美味しい美味しいって嘘ついてたことは、それで許してあげる」


 リリアーナは笑う。けれどアスベルは、笑わない。


「ただ、それでも俺の中から完全に正しさがなくなったわけではない。この世界を滅ぼす魔王が現れたなら、俺は迷うことなく剣を握るだろう」


「魔王なんて、もういないけどね。魔族の国は王政じゃないし。それぞれの種族の代表が、皆を想った政治をする。思い遣りと自由の国。……なんて、形だけだけどね」


 リリアーナはアスベルに背を向けて、丘の上からまた星空を見上げる。


「ほんと、綺麗」


 思わずリリアーナは、手を伸ばした。手を伸ばせば届くのだと思った。けれどその手は空を切る。いくら手を伸ばしても、星々に手が届くことはない。翼があろうと、自由になろうと、決して手が届かないものがある。


「…………」


 アスベルはそんなリリアーナの背中を真っ直ぐに見つめながら、ポケットに手を入れる。そこにある冷たい金属の感触を確かめるように手を動かし、無防備なリリアーナの背中を見つめ続ける。


「それで? 急にそんなことをあたしに話して、どうしたのよ? そりゃ確かにびっくりしたけど、だからってあたしがここにいる理由は変わらないわよ?」


「自由に飛べる翼があっても、それでもここに留まり続ける理由がお前にあるのか?」


「なに馬鹿なこと言ってんのよ」


 リリアーナは振り返り、笑う。いつもの笑みだ。その笑みの前では、満天の星空さえ霞む。なにを告げられても、或いは自分の想いが届かないのだとしても、それでも揺らぐことない。


 気高きサキュバスの女王は、アスベルの悩みを些事だと笑った。


「あたしは、傾国の魔女。サキュバスの中のサキュバス。リリアーナ・リーチェ・リーデンよ? あたしはいつだって、自分が1番いたいと思う場所にいる。それだけよ」


 その言葉の意味は、きっとこの男には伝わらないのだろう。もしかしたら、これから先どれだけ側にいても、想いは伝わらないのかもしれない。


 しかしリリアーナは、それでもよかった。自分でも、どうしてそんな風に思うのかは分からない。それでもこの朴念仁の隣にいると、胸が温かくなる。胸が……痛くなる。


 痛いのなんて嫌いな筈なのに、どうしてか捨てられないその痛み。その痛みが続く限り、リリアーナは決してこの男の側を離れることはないのだろう。


「お前は、変わらないな」


「あんただって、そうなんでしょ? インポのアスベル」


「そうだな。誰だって、そんなに簡単には変われない」


 アスベルが一歩踏み出す。相変わらずその瞳には色がなく、人の心を見透かすことに長けたリリアーナですら、彼が何を考えているのか分からない。それでもリリアーナは、アスベルのことを信用していた。彼が自分に危害を加えるなんて、そんなことは微塵も考えてはいなかった。




 ──だからそれは、完璧な不意打ちだった。




「…………なによ、それ」


 リリアーナは目を丸くする。アスベルは言った。


「お前のネックレス、前に壊れたと言っていただろう? だから今日、街で直してもらえないか聞いて来たのだが、どうもそれは難しいらしくてな。だから、変わりのものを買ってきた」


 アスベルがポケットから取り出したのは、指輪だった。シルバーの、とてもシンプルで遊びのない指輪。


「ずっと考えていた。でもいくら考えても、答えなんて出せなかった」


 世界の為にリリアーナを殺す。今までの自分なら、きっと迷うことはなかったのだろう。なのに自分は、迷ってしまった。そのことに気がついた時点で、アスベルの行動は決まっていた。


「もし迷惑でなければ、これからもずっと側にいて欲しい。俺がこれからも、命に変えてお前を守る。だから、どうか……」


 虫の鳴き声が遠ざかり、辺りから音が消える。アスベルは、ただ真っ直ぐに目の前の少女を見つめる。星が流れた。アスベルは言った。



「──リリィ。俺は貴女を、愛しています」



 胸が痛んだ。張り裂けるくらい、強く強くリリアーナの胸が痛んだ。理由はやっぱり、分からない。ただ痛くて苦しくて、でもどうしてかそれが心地いい。痛いのに、痛くなくて。嬉しい筈なのに、泣いてしまいそうになる。


「…………やっぱり、嫌か?」


 黙り込んでしまったリリアーナを見て、アスベルは珍しく不安そうに、リリアーナを見る。リリアーナは、強張った身体から力を抜くように笑った。


「そうね。星空の下でプロポーズなんて、あんたにしては悪くないシチュエーションだけど、あたしはリリアーナ・リーチェ・リーデンよ? あたしを落とすには、捻りが足りないわね」


「そうか。なら、忘れて──」


「でも! でも…………嬉しかった。あたしが隣でいくら騒いでも、あんたいつも無表情だったから、ちょっと鬱陶しいのかなーなんて思ってたけど、でも……うん。いいわ」


 リリアーナは小さく頷いて、左手をアスベルの方に差し出す。


「あたしも、あんたが好き。愛してる。だから……あんたが笑えないなら、あたしが代わりに笑ってあげる。あんたの代わりに泣いて、怒って、あたしにできる全てをあげる」


 風が吹く。アスベルの色のない目が見える。これから何があっても、この男を守っていこうとリリアーナは決めた。


「あんたに心がないなら、あたしが誰より側にいて、あんたの心になってあげる。だから、アスベル。これからもずっと……貴方の側に、いさせてください」


 アスベルが、リリアーナの指に指輪をはめる。2人は同じような顔で笑い、手を繋ぎ空を見上げる。


 どれだけ手を伸ばしても、決して星々には手が届かない。それでも2人は互いの手を、ぎゅっと強く握り続けた。


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