第35話 同棲



「あーもう! この本、バッドエンドじゃない! あーあ。こんな本、読むんじゃなかった!」


 大きなソファに寝転がったリリアーナは、苛立ちをぶつけるように、力強く本をテーブルに叩きつける。


「だから最初に言っただろう? その本はお前の好みではないと」


 リリアーナの正面のソファに腰掛けたアスベルは、淡々とそう言葉を返す。


「バカね。そんな試すようなこと言われると、あたしが止まらなくなるの知ってるでしょ? あんたはもっと、あたしに気を遣わないとダメ!」


「相変わらず無茶苦茶だな、お前は……」


 人間の国からも魔族の国からも離れた山奥に建てられた、古い屋敷。とある貴族が別荘にと建てた屋敷が、その貴族の没落とともに忘れられ放置された建物。


 リリアーナは前にとある貴族からそんな建物の話を聞いたことを思い出し、2人はその屋敷に向かった。道中は運よく、騎士団の追手と遭遇することもなく、2人は数日でその屋敷にたどり着いた。


 別荘と言うにはあまりにアクセスが悪過ぎるその場所は、天然の要塞のような大きな山々に囲まれおり、まず人はやって来ない。2人は一月近くの時間をかけて、その場所での生活環境を整えた。


 屋敷を囲う山々には、食用になる魔物や動物が数多くいる。近くには小さな湖もあり、水には困らない。


 2人で過ごすには広い屋敷。リリアーナが自由に生きるには、狭過ぎる場所。そしてアスベルが今までの生き方を見直すには、一月という時間はあまりに短過ぎた。


 だから2人の関係に大きな変化はなく、2人はとても穏やかな日々を過ごしていた。無論、いつ追手が来るか分からないという恐怖はあるが、2人は今のところこの生活を気に入っていた。


「…………」


 いや、違う。リリアーナには1つ、大きな不満があった。


「……こいつ、一月もこのあたしと同棲しておいて手を出さないって、ほんともう何なのよ」


 アスベルが不能であることは、リリアーナも理解していた。そもそも、この男に性欲や恋愛感情なんてものがあるのかどうかすら、疑問だ。今だって屋敷に放置されていた書庫からとってきた本を、無表情でただ捲り続けている。


 今のリリアーナの格好は、とても無防備だ。胸元だって開いてるし、脚だって出している。なのにこの男は、ちっともこっちに視線を向けない。サキュバスの特性である近くにいる者の本能を刺激する力も、全く効いていないように見える。


「このシチュエーションなら、もっとこうあると思ったのに……」


 追われる2人の逃避行。逃げた先は、人も魔族も寄りつかない山奥の屋敷。話し相手はお互いだけで、を求める相手も1人しかいない。


 牢屋で監視されていた時や、魔族の国に送り届ける為に旅をしていた時とは違う。今の生活に、目的や義務なんてものはない。少しどころか思いっきりはっちゃけても、誰にも文句なんて言われない。


「なのにこの男ときたら、朝起きて掃除して、山で食料を調達して、畑を耕す。後はご飯を食べて、水浴びをして、本を読んで、眠るだけ。朴念仁どころか、枯れ枝なの? この男は? 別に無理やり抱けとか言わないけど、ハグしたりとか、撫でてくれたりとか、そういうのはあってもいいんじゃないの?」


 リリアーナは不満だった。今まで沢山の男を誑かし誘惑してきた彼女はしかし、自分から男に甘えるのは苦手だった。だって今まではそんなことをしなくても、いつだって向こうから寄ってきた。


 ……じゃあ、寄ってきてくれない時は、どうしたらいいのだろう?


「しかしそれでも、あたしは傾国の魔女。サキュバスの中のサキュバス。リリアーナ・リーチェ・リーデンよ。あたしの誇りにかけて、自分から男に媚びるような真似はしない」


「……お前はさっきから、何をぶつぶつと言っているんだ?」


 呆れたように息を吐いて、本を閉じるアスベル。この穏やかな生活で少しは丸くなるかと思っていたこの男も、以前と何も変わっていない。新しい生き方を探るとは言っているが、それでも彼に何かが欠けているのは明らかだった。


「別に、なんでもないわ。……ただあんた、あたしと居ても楽しくないんだろうなって、そう思っただけ」


「なんだ? それは……。俺はお前だからこそ、こうしてありのままの自分を晒していられる。お前には……感謝している」


「だったら、もっと形で表しなさいよ! 言わなくても分かるだろ? とかいうのは、男の怠慢よ? ちゃんと言葉にしてくれないと、女の子は不安になっちゃうの!」


「お前がそんなたまか? 傾国の魔女、サキュバスの中のサキュバスなのだろう?」


「うっさい! あんたはいいから、あたしへの感謝をちゃんと口にしなさい!」


 なんか、子供みたいなことばっかり言っているなという自覚が、流石のリリアーナにもあった。……あったけどなんか、彼女はムカついていた。自分が決死の覚悟で一緒に行くと言った言葉の意味を、この男はまるっきり理解していない。


 きっとこの男は本当に自分が、のんびり釣りをしながら本を読んで過ごしたいんだと思っているに違いない。言葉を言葉の通りにしか受け取らない鈍感。



 ──この男、今後の為にも、少し教育してやらないとダメね。



 そう決めて、リリアーナは試すようにアスベルを見る。


「ほら、なに黙ってるのよ。早くあたしに感謝を伝えなさい」


「……お前には、感謝している。その……俺は料理とか苦手だしな。お前がいてくれて、助かってる」


「あんた、何にでも唐辛子かけて食べるけどね」


「えーっと、掃除とか洗濯とかも凄い助かってる」


「別にあたしは、家政婦じゃないけどね」


「……こうして話し相手になってくれて、嬉しい……のか?」


「あたしに聞くな! あんたのことでしょうが!!!」


「……だな」


 と、答えてアスベルは腕を組む。なんかこの女、日を増すごとにめんどくさくなってないか? と、思うがしかし、流石のアスベルもそれを口にするような真似はしない。


「分かった。なら、こうしよう」


 そこでアスベルはベッドに座り、リリアーナを手招きする。


「……え? いきなりそこに行くの? あたしは別にいいけど。サキュバスだし、いつでも準備はできてるけど……。でもここまで勿体ぶったんだから、もうちょっとロマンチックな方が……」


「お前は何を言っている。膝枕をしてやると言ってるんだ。早く来い」


「ひ、膝枕?」


 やはりこの男は、普通の人間とは感性が違うようだ。……まあそれも、なんかもう慣れちゃったけど。というかちょっと、そういうところがいいな、とか性癖が歪み始めてしまったけれど!


 ──それでもやっぱり、ムカつく!


 なんてことを考えながらも、リリアーナは大人しくアスベルの太ももに頭を乗せる。


「あんたの太もも、硬いわね」


「鍛えてるからな」


「……知ってるけどね」


 リリアーナは仰向けになって、アスベルの顔を見上げる。見えるのは、黒い澱んだ瞳と、光を拒絶するような真っ白な肌。こうして見ると、長いあいだ戦場を生き抜いてきたようには見えない。


「あんた、ちょっと髪伸びてきたわね」


 手を伸ばし、軽くアスベルの髪を撫でるリリアーナ。


「お前の髪は相変わらず……綺麗だ」


 アスベルも同じように、リリアーナの柔らかな髪を撫でる。引っかかることなく指の合間を通り抜ける、眩い黄金の髪。


 ふと、アスベルがとても優しい表情を見せた。


「……っ!」


 リリアーナの心臓がドクンと高鳴る。


「どうした? 髪を触られるのは嫌か?」


「……ううん。ただ……もう少し、こうしてたいなって。いいでしょ?」


「……そうだな。俺も同じことを考えていた」


 2人は同じような表情を浮かべ、しばらく静かな時間を過ごした。こんな時間がずっと続けばいいなと、そんなことを願いながら。


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