第29話 逃げ道
アスベルが牢屋に入れられてから、半月の時が流れた。その間アスベルは日に2度運ばれてくる食事を食べ、あとは目を瞑り時間の流れを感じ続けるだけの日々を過ごしていた。
「…………」
退屈、などというものを彼は感じない。ただ成すべことを成し、後は上の判断に従うだけ。……正直、アスベルの力なら、この程度の牢屋を蹴破って抜け出すことは簡単だった。この国で一番頑強な鉄で造られた牢屋も、アスベルの力の前では紙と同じだ。
しかし、アスベルが逃げればその責任は上官であるグランが取らさせれることになるだろう。そうでなくても、今のこの状況は正当なものだ。ここで逃げることは、自らの正しさに反する。
だからアスベルは、動かない。
「相変わらずっスね、アスベル先輩」
そんなアスベルの元に現れたのは、彼の後輩であるエリス。彼女は肩口で切り揃えられた赤い髪を揺らしながら、冷たい鉄格子に触れる。
「……何の用だ? エリス」
アスベルは顔色1つ変えず、そう問う。
「いや別に、大した用なんてないっスよ。ただ先輩がどんな顔してるのかなーって気になって、様子を見にきただけっス」
「そうか。……この前は殴って悪かったな」
「……いいっスよ、別に。先に剣を向けたのは、私の方っスから」
エリスは鉄格子の隙間から手を差し入れそうになり、途中で腕を引っ込め背を向ける。
「先輩、私と一緒に逃げましょう」
アスベルが顔を上げる。けれど、背中をむけてしまったエリスの表情は見えない。
「悪いが、それはできない。己の悪事に対する責任は、己で取らなければならない。その責任を他人に押しつけ、逃げるような真似は俺にはできない」
「やっぱり、そう言うんスね。……先輩はいつも、いつだって自分の中の正しさに従って動いてる。グラン団長が、そう言ってたっス」
「そうだ。俺は俺の正しさを裏切ることはできない。だから、エリス。お前は、業務に戻れ。お前まで、俺に構って評価を落とす必要はない」
あくまで淡々とした、アスベルの言葉。エリスは苛立ちを飲み込むように歯軋りし、背中をむけたまま言う。
「……先輩も、薄々気づいてる筈っス。今回の事件の異常性を。先輩は先輩の行動の責任を取らされてるんじゃなくて、もっと関係ない他人の思惑で殺されようとしてるんス!」
「例えそうであったとしても、俺が逃げていい理由にはならない」
「分かってるんスか! 先輩は……先輩は! 処刑されることになったんスよ? このままだと先輩は、死んじゃうんス!!」
震える声で叫ぶエリス。しかしそれでも、アスベルは揺るがない。
「俺を処刑するということは、リリィ……あのサキュバスに余程の事情があったか、或いは俺自身が邪魔になっただけか。なんにせよ、グラン団長あたりは忙しさにてんやわんやしていそうだな」
「そんなことは、どうでもいいんスよ! そんなことよりこのままだと先輩は、処刑させるんス! グラン団長がいろいろと手を回してくれてるっスけど、どれも無理そうで……。だから先輩、今から私と一緒に逃げるっス!」
「それはできない」
迷うことなく、アスベルはそう断言する。
「どうしてっスか?」
「俺が逃げれば、残った人間に迷惑をかける」
「先輩はいつも周りなんて気にせず、やりたいようにやってるじゃないっスか!」
「俺はいつでも、俺の中の正しさに従って行動している」
「だから、ここで逃げるのは正しくないと?」
「そうだ」
「……やっぱり、先輩は馬鹿っス」
吐き捨てるように言って、エリスはアスベルの方に視線を向ける。……よく見ると目の下に、大きなクマがある。彼女もまたアスベルの為にかけずり回り、そして悩み続けていた。
「上が何を考えていようと、騎士団には……いやこの国には、先輩を慕う人間が、いっぱいいるんス。先輩はもっと、自分の価値に自信を持たないとダメなんスよ! 先輩はこんなところで死んでいい人じゃないんス!」
「エリス、お前……」
アスベルは珍しく、驚いたように目を見開く。……エリスは泣いていた。普段の明るさからは想像できないような悲痛な表情で、大粒の涙を溢す。
「先輩か死んだら……先輩が死んだら、私は悲しい! 悲しくて泣いちゃうっス! だから先輩は、私と逃げなきゃ駄目っス!! じゃないと殴ったこと、許してあげないっスよ!!!」
エリスは長い間、アスベルの後輩を務めてきた。だから彼ならこの程度の牢屋を簡単に壊せることは、分かっていた。
「だが、それでも俺は、逃げることはできない」
「どうしてそう、意固地なんスか!! 正しいとか正しくないとか、そんなのどうでもいいじゃないっスか!」
エリスは鉄格子を叩く。彼女の力でいくら叩いても、手が痛むだけ。鉄格子が壊れることはない。
「騎士団だって別に、正しいだけの組織じゃないっス! 貴族と癒着して悪いことをしてる人も沢山いるっス! 民を導く筈の貴族も、その国民も、国王も! 全員、間違ったことしかしてないっス! 皆んな、自分が幸せになることしか考えてない! なのになんでそんな世界で先輩だけが、正しさに殉じてるんスか! そんなことしても……意味なんてないんスよ!」
エリスの叫びが、ただ響く。
リリアーナの処刑が決まった理由。アスベルの処刑が決まった事情。戦争をすれば沢山の人間が苦しんで。しかしそれで、得をする人間がいて。同じように、アスベルのしたことで救われた人間がいて。そのせいで、不幸になった人間もいる。
でも、だからこそ、アスベルの答えは変わらない。
「お前の言う通りだ、エリス。俺の正しさに、大した意味なんてない。この国……この世界に、命を賭ける程の価値があるなんて思っとことは、一度たりとも……いや、違うな。……本当は俺が知らないだけで、価値はあるのだろうな」
何かを思い出すように、アスベルは息を吐く。
「ただその価値を、俺1人の力で守れるなんて思わない。そんなものはただ傲慢だ。俺は俺にできることをしてきたつもりだ。しかしそれは、世界から見れば本当に小さな、消えてしまいそうになるくらい小さなもので。だから、俺のしてきたことに……たいした意味なんてないのだろう」
「だったら……!」
「ただそれでも、俺はその正しさの為に多くの人を殺した」
アスベルは立ち上がる。エリスは思わず視線を逸らしてしまう。それ程までに、アスベルの目は……暗く澱んで光がない。
「魔族を殺した。人を殺した。男を殺した。女を殺した。子供を殺した。老人を殺した。ありとあらゆる生き物を、殺して殺して殺し尽くした」
「でもそれは……戦争だから、仕方なく──」
「俺はな、エリス。そうやって、言い訳にしたくないんだよ。戦争だから、命令されたから、そうやって誰かのせいにして逃げるような真似だけはしたくないんだ」
アスベルは笑う。それはリリアーナに見せた、下手くそで不器用な、それでもアスベルの精一杯の誠意。
「俺は俺の正しさを信じて、ここまできた。だからその俺自身が、正しさを裏切るような真似はできない」
「それで、自分が死ぬことになったとしてもっスか?」
「ああ。俺にはそれしかない。それしか残らないよう、生きてきた。……だから、ありがとう、エリス。お前の気持ちはとても嬉しい。でも、それでも俺は、今までの自分と俺が信じた正しさの犠牲になった全ての為に、自分を裏切るような真似だけはできないんだ」
「……っ」
本当はエリスも、分かっていた。頑固なアスベルが簡単に頷いてくれるなんて、思ってなかった。だから今日は、もっと軽い感じで話をして、それで帰るつもりだった。
でも、アスベルの全てを受け入れるような顔を見て。全てを諦めたような顔を見て。エリスはどうしても、自分が抑えることができなかった。
「……私は、先輩が助けてくれたから、今もこうして生きてられるんス。先輩が自分の正しさを信じてくれたから、こうして生きてられるんスよ」
「なら、それでいいさ。お前が生きてくれるお陰で、俺がしてきたことにも意味が生まれる」
「……ダメっス。そんなんじゃダメっス。私は……私が絶対に、先輩を死なせないっス! どんな……どんな手段を使っても助けてみせるっス! だから先輩は……先輩は! いつもみたいにそこで、仏頂面で筋トレでもしてればいいんス!!」
それだけ叫んで、エリスはこの場を立ち去る。
「……言い訳だな」
エリスの姿が見えなくなってから、消え入るような小さな声でそう呟くアスベル。そして彼はそのまま色のない目で、陽の光が差さない暗い闇を睨む。
「それで、貴方は何の用ですか?」
その問いを聞いて、1人の男が姿を現す。
「デートのお誘いだよ、アスベルくん」
影から現れた男──アランは、そう言ってからかうような顔で笑った。
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