第45話 悪夢



 リリアーナ・リーチェ・リーデンは、暗い闇の中にいた。



 自分の身体なのに、自分の意思で動かすことができない。身体を乗っ取られた……というよりも、作り変わったというような感覚。ここにいる自分こそが異物であり、今すぐ消えてなくなるべきだ。そんな風に思ってしまうくらい、は完璧で清廉で、何より……美しかった。


「それでも、あたしは……」


 どれだけ彼女が完璧で美しくても、このまま消える訳にはいかない。会いたい人もやり残したことも、まだまだ沢山ある。


「こんなところで、諦めてたまるか」


 そう決めたリリアーナは肉体の主導権を取り戻す為、自分の意識の中を泳ぎ回る。どこかにきっと、この状況を打破する何かがあると信じて。


「……え?」


 しかしそこで彼女が見たのは、自分のものではない誰かの記憶。リリアーナの身体に……遺伝子に残った、サキュバスクイーンという種族が辿った歴史。


『やめてやめてやめて!』


『誰か! 助けて!!』


『痛い痛い痛い痛い!』


 サキュバスクイーンはこの世で唯一、神の寵愛を受けた種族だった。魔力の流れが見えているかのような規格外の魔法。ただそこにいるだけで相手が跪く、強力な魅力。そして、神を卸すに足る清廉な肉体。


 今より数千年前、この星の頂点は彼女たちだった。誰もが彼女たちに跪き、彼女たちはまるで自分たちが神であるかのように振る舞った。……しかし、そんな彼女たちの天下も長くは続かない。


 どうしてか、魅了の力が全く通じない亜人あじんと呼ばれる種族。頑丈で力が強く無感情な彼らは、人間という種族をまとめ上げ、サキュバスクイーンに反旗を翻した。


 今まで、多くのヘイトを集めていた彼女たちは、ありとあらゆる種族に裏切られ、孤立した。魅了の力は強力ではあったが、それ故に彼女たちは驕っていた。何千年も奴隷として扱われ続けた種族たちが、本気で自分たちを愛してくれているのだと、そう思い込んでしまっていた。



 結果として、サキュバスクイーンという種族は滅びることとなった。



 殺され、犯され、壊され、それでもどこかで彼女たちを恐れていた種族たちは、血眼になって彼女たちを探し出し、1人の生き残りも許しはしなかった。



 ──神の力も、積み重なった憎悪には敵わなかった。



 神に選ばれた少女たちは、1人残らず殺し尽くされ、サキュバスクイーンという種族は絶滅した。……しかしその怨念は、恨みは、嘆きは、苦しみは、血となってこの世界に溶け込んだ。


 殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。殺しやる。


 その悪意の結晶は、死してもなおこの世界に残り続け、数千年もの時を経て、リリアーナ・リーチェ・リーデンという少女を器として蘇った。


 リリアーナという少女は、サキュバスクイーンの悲願を継ぐ者である。……いや、。遅かれ早かれ彼女の意識は、消えてなくなっていた。たった1人の少女の想いが、数千年もの怨嗟に勝てる道理がない。


「……違う」


 故にその肉体には、意志や心などという余分なものは存在しない。彼女……リリアーナの意識は、サキュバスクイーンの力とその意志を隠す為に、イリアスが魔法で創り出した紛い物だった。


「違う違う違う違う……違う……!!!」


 ミミィがリリアーナに告げた言葉。それは、神を卸す為の言葉なのではない。あれは、今まで偽物の心を再現していたイリアスの魔法を、解除する為の言葉だった。


「……あたし、あたしは……だって、違う!」


 彼女が自由を願ったのは、ただキードレッチに余計な詮索をされたくないという、イリアスの考えを反映しただけのもの。キードレッチの目から隠す為に、彼女を人間の国に潜伏させた。


 それに付随する小さなもの……アスベルに惹かれたその心は、単なる誤差に過ぎない。優秀で自分を守ってくれる人間の元に行けというイリアスの命令を、恋心と勘違いしてしまった。


 だからこの肉体に、心なんてものは存在しない。全て紛い物で、全てが嘘。こうして残ったその意識も、いずれ消えるだけの魔法の残滓。



 ──リリアーナ・リーチェ・リーデンなんて少女は、初めからこの世界に存在しなかった。



「……ごめん、アスベル」


 貴方の心になると、あたしは誓った。笑えない貴方の代わりにあたしが隣で笑い続けると、そう約束した。でもそもそも彼女は、一度だって笑ったことなんてなかった。初めから全て、偽物だった。


 人形と人形が、互いを愛しているのだと思い込み、ずっと一緒にいようと約束した。それはなんて滑稽で無様な……思い違い。


「助けて、アスベル……」


 そんなか弱い声が最後に響いて、偽物の意識が消える。紛い物の心の残滓は、深い闇に飲まれて消えてなくなった。


 そして、それを合図にするかのように、ずっと沈黙を守っていた神の力を宿した少女が、立ち上がる。


「そうか。もういないのか」


 そう呟き、少女は小さく笑った。


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