残機令嬢は鬼子爵様に愛されたい~前略、私を溺愛してくださる旦那様。うちの鬼畜実家の相手もよろしいですが、早く手を出さないと私、女の子に取られますよ?かしこ~

れとると

第1章 The Fool【エスカの章】

第1話 エスカの幸せ

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愚者The Fool逆位置Reverse


 孤独で醜いその娘は、過酷な不自由に甘んじる愚かな女だった。

 しかし彼女は、小さな世界の万の幸福を知っている。

 生きる大きな喜びを、誰より深く知っている。


 彼女は、足るを知る者。路傍の賢き者。

 その日、愚者は炎に蒼天を見て。

 自由を得て、賢者となる。


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 クロス王国の中でも、ロイズ男爵家の領地は要衝にあると言っていい。


 さらに現ロイズ家は、「グレートエストック商会」の元商会主エストックを婿に迎え、その経済力を飛躍的に伸ばしていた。

 男爵にしては大きすぎる屋敷は、その象徴とも言えよう。

 裏手に古びた、物置のような離れがあることを除いては。


 どう見てもボロ小屋のそこで、黒き小さな悪魔を思わせる女が、手紙を綴っている。

 非常に集中している様子で、小屋の壁の隙間から入った陽射しが顔を照らしても、ペン先が乱れることはない。

 そのまともではない容貌も合わせて、鬼気迫る雰囲気を醸し出していた。


 ペンを握るその手は、骨が浮き出ていて肉がほとんどついていない。

 文字を見つめる目の下には隈ができており、頬はやせこけていた。

 病的に白く、しかし荒れてくすんだ肌も合わさって、その様子は幽鬼のよう。


 床まで届かんばかりに伸びた、波がかった黒髪は、雑に高いところで無理やり紐でくくられ……これもまた、荒れ果ててぼさぼさだ。

 麻の服はつくろいの跡だらけで、なお修繕が追いついておらず、ところどころ破れるか薄くなっている。

 年は30にほど近いはずだが、酷い栄養状態のためか、体格はよくて童女のそれだ。


 だが当の本人は、そのみすぼらしいなりを気にした様子もない。彼女にとってこの有様は、当然のものなのだ。

 むしろこのような境遇にも関わらず、文を綴るその表情は非常に穏やかで、幸福感に満ち溢れていた。

 住処が荒れ、服がボロで、自身が不遇であろうとも。その女は幸せな人生を謳歌していた。


「――――さらなるご発展を願って。エスカ、と」


 かすれた呟きとともに、そっと丁寧に文末が綴られる。

 今日最後の一枚を書き終え、彼女は長く息を吐くと、ペン立てに愛用のくたびれたペンを戻した。

 ゆっくりと立てた上で、いたわるように指先でそっと撫でる。このペンは彼女にとって、長年連れ添って来た相棒のようなものだ。


 そのボロボロの女性の名は、エスカ。エスカ・ロイズ。

 こんな様相だが、ロイズ家の一員……男爵令嬢である。

 とはいえ彼女は、ロイズのことを特に家族だとは思っていない。ただの家主、くらいの認識だ。


 父以外とは義理の関係だが、そういう理由からではない。そもそも、エスカはまともに人間扱いされていなかった。父エストックからも。

 本邸には近づくこともゆるされず、家族らしい交流はあった試しもない。

 離れに十数年隔離されており、家人に会えば流れるように自然に罵倒される。


 エスカは先日もらった手紙を一通手に取り、少し内容を読み返す。会ったこともない手紙の先の相手の方が、まだエスカを気遣ってくれていた。

 そんな家族扱いされていないエスカが、ロイズの離れに住んでいられるのは、書類仕事を一手に引き受けているからだ。

 「代筆」。それが彼女の仕事だった。そして大事な、生きがいでもあった。


 当主エストック・ロイズがまだ商会主どころか、ただの商人であったころから、エスカはこの「仕事」をしている。

 戯れに父エストックに文を書かされ、それが客の目に留まり、たいそう好まれた。

 以来、すべての書の代筆を行う代わりに、彼の元に置かれている。


 エスカ自身もまた、その客の輝くような瞳と、その時感じた得難い至福が忘れられず、進んで代筆を生業とした。

 どのような扱いを受けようとも、書かせてもらえるならばそれでよかった。


 しかし。


「これでおわり、か。やることもないな」


 もう、最後の一枚が書き上がってしまった。今日の幸せな時間は終わりだ。

 読んでいた手紙を戻す。書いていた方はインクが乾くのを待ち、封筒に入れる。

 机の上には、そうして用意された手紙が十数通あった。


 書いた手紙の7割は、当主の手紙の代筆。残り3割はエスカ個人に宛てられたものへの、返信。

 手紙は毎日それなりに来るが、ゆっくり書いても二時間もあれば終わってしまう。

 書類もたまにはあるが、毎日は回ってこない。


 大変なのは、徴税の時期くらいだ。

 昔は商会絡みのものもあったが、今のグレートエストック商会は父の手を離れている。そちらから仕事が来ることはない。


 縫物の続きでもしようかと、エスカは作業台に出しっぱなしの裁縫道具を見る。

 一部を除き、ロイズからのものではない。針も糸もハサミも、幾人かの者が、少しずつ厚意で送ってくれたもの。

 こうした贈り物はロイズに取られそうになることもあるが、使って感想を書かないと非礼にあたると、エスカはなんとか確保している。


 とはいえ、実際にとられても、告げ口のようなことを手紙に書けるわけではないのだが。

 彼女の書くものは、すべてエストックが検めている。不用意なやりとりや、そうとられかねないことを書くと、罰を受ける。

 この生活がまともではない自覚はあるが……仮に助けなど呼ぼうものなら、どんな目に遭うか、わからない。


 以前受けた罰を思い出し、エスカは椅子の背もたれによりかかりつつ、自身の頭の上を見る。

 そこには白く少し大きな、数字が浮かんでいた。

 それは彼女が「残機ざんき」と呼んでいるもの。


『x0』


 エスカの命は、風前の灯火だった。

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