第2話 エスカの命
エスカの頭上に浮かぶ、0という数字。
最初は99、だったはずだ。
この他の者には見えない字を、彼女は初めて見たとき思い浮かんだまま、「
残機は、エスカが死ぬと減る。減って、エスカは蘇る。
飲食すると、増えることがある。
しかし食事など、長いことロクにとっていない。
しばらく前まで義理の妹に鞭で打たれ、よく死んでいた。
父の折檻でも、最後まで生き延びられず、絶命すること多数。
あとうっかり死ぬこともある。餓死は定期的に。こけて死んだことも……たぶんかなりある。
一度死ねば、傷も消えて復活し、空腹もなくなる。
文字通り死ねば楽になるせいもあって、エスカはとうに死に慣れていた。
しかし。ついに0になってしまった。最後に死んだのは、先月だったか。死因は溺死だ。
飢えた状態で小川に行き、水を汲もうとして足を滑らせ転倒。体を強打して動けなくなった。
運の悪いことに顔が水に浸かり、たらふく水を飲んで死んだ。
復活してすぐに抜け出さなかったら、そのまま死に続けていたかもしれない。危なかった。
「0、か。あと何日もつかな」
最近は、さすがに気をつけて生活している。
だが、また飢えて来た。食料は、ない。
これまでの経験から言って、あと七日もすれば飢えて死ぬだろう。
離れの周辺に自生している植物は、何年もかけてすべて食べられるか試した。
食あたりを何度も起こし、残機を無駄に減らしただけだった。
減ってくれるならいいほうで、ひと月近く悶え続けることになることもあった。
近くの小川のおかげで水には困らないのだが、生息している魚や両生類、虫はダメだ。
なぜかだいたい毒を持っている。もちろん試して、片っ端から死んだ。
よく焼いたはずなのに寄生虫がいて、惨い目に遭ったこともある。もう食べたくない。
小動物を見かけることもあるが、追いつけない。エスカは小さいせいもあって、走るのが苦手だった。
罠は作ったこともあるが、仕掛けてもかからない。むしろ忘れて自分が踏んでひどい目に遭ったので、もうやりたくない。
エスカは狩りやサバイバルに、致命的に向いていなかった。
「せめてキノコか花があればな」
稀に見かける存在を思い出し、望むべくもないと頭を振る。
食べると残機がいい勢いで増えたり、妙に力が湧くものがあるのだが、20年で数度しかみたことがなかった。
しかもどこに生えるのかまったくわからない。寝台の下の床にあったこともある。
希望もなく、増える見込みのない残機を再び見て、ため息をつく。
残機0から死んだことはまだないが、さすがに次はもう、蘇らないのではなかろうか。
エスカはそう思って、じわりと不安を感じたが……。
「それでいいか」
すぐに受け入れた。
もう終わってもいい、と考えたからだ。
諦めていた。
だがそれ以上に、エスカは幸福だった。
そっと机を撫でる。ボロボロだが毎日磨いている甲斐あって、表面はなだらかで、綺麗だ。
修繕しながら住んでいるボロ屋も。繕い跡だらけの着ている服も。
ペンも、机も、椅子も、寝床も。たったこれだけの世界だけれど。
エスカはこの狭い世界が、大好きだった。
小さな宝物、たくさんの思い出。得難い経験と、知見と、交流。
エスカのすべてが、ここにあると言ってよかった。
義理の兄弟に痛めつけられたり、父の懲罰に晒されたり。
使用人たちの嘲笑を聞くよりは、ずっと、ずっと。
ここは幸福に満ち溢れている。
この小屋にいる間はいい。安心できる。でも外に出ると、嫌なことばかりだ。
エスカは小屋に居続け、外から逃げるために……苦しかろうと辛かろうと、不遇だろうと、働き続けてきた。
小さな幸せの空間に、ずっと浸っていたかった。
たくさんの幸せをもらったここで死ねるなら、本望だ。
改めて0となった残機を見る。すると。
<――――――――>
たまに残機から聞こえる、声。
何と言っているかはわからないが、その数字はエスカに何かを伝えてくることがある。
今のは……励まされているのだろうか。
「いいよ。私は幸せだ」
<――――――――>
また。二度連続は珍しい。なんだろう。
エスカは本心を述べたつもりなのだが、何か気に入らなかったのだろうか。
<――――――――!>
三度続いた。警告、のような気がして。
このようなことは、初めてだ。
しかしエスカが何か行動を起こす前に、小屋の扉が鈍く叩かれた。
『ダンナさまがお呼びだ。本邸にいけ』
扉の向こうから、男の低い声がした。下男の誰かだろう。
使用人たちはたまに、エスカに言伝しにくる。ただ、扉を開けたり、中に入っては来ない。
この屋敷の者は皆、彼女が死んでも蘇る化け物だと、知っている。だから関わらない。
「すぐ、向かいます」
エスカは返事をし、書いた手紙すべてを、大きな封筒にまとめて入れた。
これを本邸の所定の場所に持っていき、置いておく。そういう決まりだ。
封筒は机にいったん置き、椅子から降りた。
自ら縫った、一等マシなドレスで行こうと、着替えを始める。
本当は、嫁入りの衣装を思い描きながら、縫い続けていたものなのだけれど。
知っている。それは叶わない。
これが死に装束になるだろう、そう思いながら、エスカは大事なドレスに袖を通した。
父からの呼び出しなど、懲罰以外であった試しなどない。
だが、逆らえない。
不自由だが、幸福な人生だった。
着替え終わって封筒を持ったエスカは、最後に部屋の中を振り返る。
<――――――――…………>
また、声がする。悲しそうな響き。
エスカは頭上を一度見、部屋に視線を戻し、つとめて笑みを浮かべ。
「……ありがとう。さようなら」
彼女の小さな世界に、深い感謝を込めて別れを口にし。
扉を閉め、後にした。
この呼び出しと、そのきっかけになった手紙が、エスカの本当の望みをかなえるものだとは。
彼女はまだ、知らない。
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