第2章 The Magician【メイルの章】
第16話 エスカのいるエスド子爵家
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臆病な彼は、騎士になりたくはなかった。魔法使いになりたかった。
憧れは時に空回りし、周りを巻き込んで自らを傷つけた。
彼の大事な人をも傷つけた。
彼女の信頼を得た時。路傍の賢者の叡智を得た時。
少年は臆病の仮面を脱ぎ捨てて。
勇気溢れる、魔法使いになる。
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あれからしばらく経った。
エスド子爵たるメイルは、花婿修行引きこもり中。エスカは、彼の代理で領の業務を手掛けていた。
一通りは片付いたので、今は休憩もかねて中庭に出てきている。
エスド子爵邸の中庭は外庭と異なり、体を動かしたりお茶したりするための広場といった印象だ。
それでも心の和むような彩りがそこかしこに見え、ここに来るとエスカはとても安らぐ思いなのだが。
今日の彼女はそこで、足元まで届く長い布を首に巻いて下げ、新品のハサミをもって。
ため息をついていた。
「お。なになにー? やっぱり長い方がいいってなったの?」
テーブルについてお茶の作法の復習中のメリーが、元気に煽ってくる。
だが別に、そういう理由ではない。髪は切る。いくらなんでも長すぎて邪魔だ。
ため息をついたのは、そのハサミのことを思ったからだ。
ちょうどいいハサミがなくて、断腸の思いで一本打ってもらった。
高かった。無視できない額の出費だ。その分を稼ぎ出さねばならない。そう思うと、エスカの頭は少々痛んだ。
「このハサミ、掛けで買うことになってね」
「カケ? えっと、借金?」
「……後払いだし、そんなものだ」
収入があったときに、まとめて払われる。
そして領主からの払いなので……つまり徴税時となる。
「お金ないの?」
「ない。この家にあるのは、魔物を倒して領を守ってくれるという、信用だけ」
領と家の資料を精査したエスカは、沈痛な面持ちで答える。
ウィンド家にも換金可能な品や、銀貨は多少あったが、ほぼ死蔵されていると言っていい。
「だめじゃないの」
「だめなのですか……?」
メリーに作法指導中のシフティが、口を挟んできた。
「領主としては普通だ。しかし南部は普通の場所ではない。
飢饉や魔物の大発生が起こったら、この家は助けを呼ぶことすらできずに、吹き飛ぶ」
「ぅ、そこまでですか」
「そこまで。ウィンドはまだ、そういった危機の経験がないようだけど」
王国の貨幣経済の浸透度は、ほとほど、といったところだ。
エスド領が特別遅れているわけではない。だが王国南部は人も物も流動が激しく、状況が変わりやすい。
エスカは備えが足りずに危機を迎え、破綻した南部の領をいくつも知っている。把握している限り、20年で7つはあった。
ウィンドは魔物から領土奪還を達成して新興した家なので、この辺りの把握と備えが不十分なのだろう。
今後を見据えれば、徴税以外の収入手段が要る。金を稼げなくてはなるまい。
新品のはさみ一つで傾くものではないが、先が思いやられる。
ため息とともに、エスカは一つにまとめた髪をばっさりと切っていく。
とりあえず肩口下くらいでそろえていくつもりだ。まずは洗いやすくしなくては。
「ああ……切っちゃった」
メリーはとても残念そうだ。
彼女はうまく髪を巻いて、洒落た装いにしている。
エスカも同じことをしてもらったが……似合わなかった。同じ顔なのに、ずいぶんと差異があるものだ。
「ねぇエスカ。さっきの、エスカならどうするの?」
「お金の件なら、手は打った。シフティ、今日の手紙は?」
喋りながら、エスカは足元に敷いた布に切った髪を落とした。
「あ、はい。三通ほど。エスカ様がお出しになった分は、すべてお返事が来たかと。
内容をご確認されますか?」
「見せて頂戴。そこで開いてくれたらいいから。目はいい方でね」
シフティが三つほど封筒を取り出し、封を切って中身を取り出し、エスカの方に文面を見せる。
「それは?」
興味をそそられるのか、メリーが手紙を覗き込んでいる。
「ロイズからウィンドについてくれないか、って私から出した手紙」
「ほほー」
そういえば家を出るとき、ロイズの役に立てとか言われた気もする。
だがエスカは混乱していたので、綺麗さっぱり忘れ去った。知ったことではない。
文友にはロイズにされていたことの実情をぶちまけ、協力を仰いだ。
ロイズ家の取引先等にも、ウィンド家の名でエスカが手紙を「代筆」し、出している。
それとなく事情を匂わせる文面にしたためか、期待通りの返事が集まった。
「ウィンド家が培った『信用』のおかげだね。どこも末永く、良いお付き合いができそうだ」
自領でなんとかならないなら、まずは味方を作っておく。
もちろん、ウィンドがどうしょうもない家ならば、ロイズを切ってでもこちらにつくような者は現れないが。
今のところは、順調だ。金を借りるにしろ、不測の事態に支援を要請するにしろ、十分な期待ができるだろう。
そして関係を結んだことを足掛かりに、次は商売を行っていく。
何を商いにするかは、もう少し実際に領を見て回りたいところだが。
エスカはそっと庭を見る。先日来たときとは、また違った花がもう見える。
これもまた……商売の種になるだろう。まだ花は勉強中だが、明らかにこの辺りで咲かないものがあるのは分かる。
そこにきっと、特別なノウハウがあるはずだ。農業全般に広げれば、大きな利益が見込める。
「えぐい真似するわね、エスカ」
メリーがにやにやしている。エスカもまた、悪い顔をしていた。
各家の財は有限だ。取引できる相手は限られている。
ウィンドについてもらうなら、当然ロイズは先細りになるわけだが。
婚家のためだ。実家が燃え上がろうとも、仕方のないことである。
ライラのことだけ気がかりなので、学園にも手紙を出してある。
場合によっては、エスカは自ら会って話をするつもりだ。
ドレスの礼も言いたい。まだお返しは、縫い始めたばかりだが。
手紙を読み終えたエスカは、髪をくくっていた紐を外し、ハサミで毛先を切り揃え、梳いて髪の量を減らしていく。
「次をお願い」
「はい、こちらです」
二通目に目を通しながら後ろ髪、前髪、脇、頭上と器用に整えて。
「……すごいですね」
どうも、散髪の腕をシフティに褒められたようだ。
エスカとしては、大したものではないという意識だ。
むしろ、高いハサミを使ってるのだから当然では?と思っている。
「そう?」
「いやすごいでしょ。切るだけで全然別の髪になるのね。魔法みたい」
「私は髪の量が多いから、梳いて量を減らして整えると、印象が変わるんだよ」
「私もやってもらおうかしら?」
「君はそのままでとても綺麗だよ、メリー」
メリーはテーブルの下で足をばたばたさせながら、キャーと黄色い声を上げてはしゃいでいる。
作法の勉強は休憩中とはいえ、淑女らしさがいい勢いで放り出されていて、どうかと思うが。
その方がメリーらしくて良いと、エスカは目を細める。
「二通目は、特にない。次を」
「はい」
エスカに言われ、シフティは二通目をしまい、三通目を出した。
エスカはメリーから視線を外し、目を通す。
そして文末付近でとまった。黙考し、結論を出す。
「シフティ、その方を招いて。場所は任せる」
「はい。え!? この方は」
差出人の名を改めて見て、シフティの顔が曇った。
エスカは首を振って、彼女の懸念を否定する。
「父ではないよ。グレートエストック商会は、二人の商人が立ちあげたもの。
今の商会主は、父と袂を分かった、グレッソ氏」
グレッソ・バール。
エスカが個人的に長年文通してきた文仲間でもあり、彼女の文に魅了された、最初の客だ。
「現在の商会の主な商売が何か、知ってる? シフティ」
「それはもう。南部で『冒険者』を知らぬ者はおりません」
確かに、国境にほど近いエスド領の者は、特に馴染みが深いだろう。
彼の作った、冒険者ギルドは。
「そう。その、冒険者の頂点に立つ方が言っている。
南西国境付近……つまりこの領の近くに、魔物集結の兆候あり、と」
エスカは髪を払いつつ、屋敷の一画を見上げる。
まだ出てこない旦那様も、おそらく引きずり出さなくてはならないだろう。
これは間違いなく、ウィンド家が吹き飛ぶような、危機だ。
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