第17話 エスカは迎え撃たれる

 グレートエストック商会の主・グレッソ・バールは、エスカからの返事が届いたと見られるその日のうちにやってきた。

 それも、ロイズ領にあった本店事務所を引き払って来たという。

 どうも、エスカが居住変更の報せを出し、すぐ準備していたようだ。相変わらず、目端の利く商人だ。


 エスカは旧交を温めつつ、核心をまずは聞き出した上で、グレッソと秘書を執事のアルトとシフティに任せ。

 屋敷の主の部屋の前まで、やってきた。

 なお来客中につき、『ハッピー』は自室待機……否、自主規制中なので、エスカ一人だ。


 やはり、鬼と恐れられる王国随一の騎士の同席が、必要な話だった。

 もちろん、その後も共に対処してもらわねばならない。

 花婿修行どころではない。領の危機だ。


 シフティ経由で、メイル宛てに訪問の意思は伝えてもらった。

 だがエスカは扉を叩こうとし……戸惑った。

 何に惑ったのか、自分でもよくわからない。


 メイルに会うのを恐れている、わけではないはずだ。

 会いたいか会いたくないかで言えば、会いたかった、と思う。

 想像する。扉を叩き、開けてもらって、顔を合わせて――――


(何を話せばいいのか、わからなくなりそうだ……)


 すでにエスカの頬は、ほんのりと赤くて。

 覚悟を決め、手を伸ばす。

 だがその向こうで。


 扉が開き、引かれた。叩く前に開けられてしまった。

 屈んでいるのか、意外に低い位置からメイルの顔が覗く。


 視線が、交差する。不意打ちで正面からばっちり、目が合ってしまった。

 はしばみ色の瞳が、揺れている。

 自分がその中に、見える、ようで。


 茹でられたように、耳まで赤くなりながら。

 だがエスカは羞恥よりも……不思議な安心感を覚えていた。

 そっと、手を伸ばすと。彼の頬に、届いた。


「少し、おやつれのようですね」


 言葉は、信じられないほどすんなり口をついて出た。

 まだ三度目。三度しか見ていない顔ではあるが。

 エスカはこれまでの二度と、少し印象の違う彼の顔を、確かめるように撫でていく。


 耳のあたりには、少しの脂。

 顎に近づくと、わずかにざらりとする感触。

 唇。かさつきがあり、水分が足りていない。


 ――――お舐めしたら、潤うだろうか。


 エスカがそんなことをぼんやり思い浮かべ……意識せず、囁くように口にのぼらせたところで。

 不意に顔が引っ込み、扉が閉まった。

 手が空を掴む。また、逃げられてしまった。


 代わりに自分の首筋に手を当てると、とても熱かった。

 自身はもちろん、手にも……彼の頬の熱が、そのまま残っている。

 少し息を吐き、エスカは気持ちを整える。


「急に来てごめんなさい。驚かれたでしょう」

『ぃ、いえ! 少々、お待ちを』


 顔の熱が引くのを、待てということだろう。

 私はこのままでもいいし、無駄な抵抗だと思うのだが、と。

 エスカは少し楽しげに、薄く口元を歪める。


 そして、我に返った。


 扉の脇の壁まで行き……頭を打ち付けようとして、思いとどまる。

 代わりに額を、頬をつけていき、少しでも熱を冷まそうと試みる。

 エスカは完全に自分を見失っていた。一連の自分の行動が、自身の意思を思いっきり離れていた。


(なんだこれ……)


 まともな人付き合いなど商会にいた頃、僅かにあっただけ。

 牢獄のような男爵家、手紙、そしてウィンド家と、エスカの対人経験は極端だった。

 そんな彼女が、自身に芽生えた新たな感情に、簡単に名前をつけられるはずもなかった。



 ◇ ◇ ◇



 使用人もいない部屋に、二人きり。


「どうぞ」


 エスカが椅子に座ってまごまごしていると、カップに入った茶を供された。


「ぇ、あ! メイル様!?」


 エスカはさすがに慌てた。当主に手ずから茶を淹れさせてしまうとは。


「よければ、飲んでほしい」


 メイルは自分の分のカップも置き、エスカの正面、テーブルを挟んで向かい側に座った。

 前二回の邂逅とは別人のように柔らかな物腰で、茶を飲む仕草は実に優雅だ。

 貴公子を通り越して、貴婦人のようにすら錯覚する。


 香りを楽しみ、飲んで少し息をつき、ほほ笑むさまが――――美しい。


 エスカはしばし見惚れ。

 無意識にカップのハンドルをつまみ、口元へ。

 香りが鼻腔をくすぐり、薄く開いた口からも入り、奥へ抜ける。


「これは、庭の……」


 覚えのある香りが、いくつもした。

 そのものではないが、幾度か庭を見せてもらったとき、嗅いだもののはずだ。

 煎じて茶にしたのだろう。とてもまろやかな風味になっている。


「そうなんだ。いくつかの薬草を混ぜてある」


 言って、まさに花開くように笑顔を見せる青年から……エスカは目線を逸らす。その笑顔は、何かずるい。

 熱が昇ってくる前にと、ほどよい温度の茶に口をつけた。

 彼女の目が驚きに見開かれ、次いで細められる。


 エスカは茶を嗜んだ経験などほとんどない。ウィンドに来てから、まだ数度。だがはっきりとわかる。

 茶葉だけではなく、淹れ方の違いで出ている、味の大きな差がある。


 おいしい。申し訳ないが、シフティはメイルの足元にも及ばない。


「すばらしい」

「お気に召したようで、よかったよ」

「メイル様は、茶だけで一代を築けます」


 掛け値なしに、エスカはそう評価する。

 王都……いや、帝国のいずれかの都市で庭付き茶店を開けば、恐ろしく流行ることだろう。

 一代どころか、三代末までは安泰だ。何かあって貴族で立ち行かなくなったら、その計画で行こう。エスカは密かにそろばんを弾いた。


「ご評価、痛み入る」


 返答と仕草も、柔らかで落ち着きがある。

 あの粗暴だった態度はフリなのだな、そうエスカは納得した。

 彼の様子、庭、これまでを振り返り、エスカはふと気になったことを口にする。


「もしかしてメイル様は……戦よりも、こういったことの方がお好きなのですか?」

「……騎士としては、恥ずかしながらといったところだけれど。その通りだ」


 飲み切った茶を置き、彼が続ける。

 本題に入るつもりだ、とエスカは感じた。自分も居住まいを正す。


「商人……それも、グレートエストック商会の主を呼んだと聞いたよ。

 戦況はどのようになると、君は見る。エスカ嬢」


 経緯どころか、予測まで踏み込んできた。

 グレッソを呼んだ、それを知っただけで、メイルは事態を把握したということだ。

 エスカは内心舌を巻きつつも、これは試されているな?と判断した。遊びのようなものだろうが。


「戦略目標をウィンド家の存続に置いた場合、五分五分で推移するでしょう。

 冒険者への支払いのために借金を重ねて、それで持つかどうか」

「その目標には、僕の生存が前提になっているね? なら問題なさそうだ」


 エスカはカップを置き、顔を上げる。メイルの見せる笑顔が、少しぎこちない。


「こう見えて僕は、強いんだよ」


 そして彼女は、少し嘆息した。

 自分が最前線で命を張れば、必ず勝てる。

 そう言われて納得できるのは、現場の人間くらいだろう。


 エスカは頭が商人や貴族、つまり後方寄りなので、とても納得できなかった。

 少し、彼の肩口を見て。


「テーブルの下の手の震えが止まったら、その意見を採用しましょうか。坊や」


 そしてその瞳に視線を合わせて、薄く笑う。


「これは困った。敵わないな」


 答えるメイルは意外に楽しそうで、エスカは満足した。

 緊張は解けたのか、震えは止まったようだ。

 そんな彼が、何か意を決意したように頷き。


「やはり今のうちに、渡しておこう」


 席を立ち、一度奥の部屋に消えてから……戻ってきた。


「それ、は」


 窓から差す、午前の陽光を受けて。

 彼の手の中にあるものたちが、まさに黄金のように輝いていた。


 それは失われた、エスカの宝物たちだった。

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