第5話 エスカの小さな世界
<――――――――!>
部屋を出てすぐ、残機の声がした。
響きは、後ろの方。ひょっとして。
小屋は屋敷から見ると、裏手。
このままでは屋敷の中を奥から出口まで走り、さらにぐるっと回ることになる。
勝手口はあるかもしれないが、エスカは場所を知らなかった。
だが。
エスカは声の導きを信じ、反転し、走り出す。
角に差し掛かるたび、残機の声がする。
5度、その声を聞き。
目の前に現れた勝手口のノブに、手をかけて。
鍵は、かかっていない。いける。
途中、部屋を出たメイドたちとは、会わなかった。
人を呼び集め、準備しているのかもしれない。
今なら、間に合うかもしれない。
乱れた呼吸を整える。
仮に……小屋が、燃やされてしまう、としても。
エスカは小さな宝物たちを、少しでも救い出したかった。
ずっと使ってきたペン。
文通相手から送ってもらった、お気に入りのインク壺。
服は修繕跡が目立つものの、だからこそ愛着がある。
裁縫道具もだ。これもまた、人から厚意で頂いていたものばかり。
そして何よりも大切な、たくさんの手紙たち。
旅先から送ってもらったものもある。
何年も交流してきた人のものもある。
その手紙を最後に……亡くなったと伝えられた人もいた。
彼女が積み重ねてきた、人生のすべて。
それらを救うため、扉を開ける。
エスカのすべてが。
燃えていた。
勝手口から出た、エスカの視線の先で。
炎は渦巻き、天を衝かんばかりだ。
薬か、魔法を使ったのか、火勢は非常に強い。
早すぎる。
いや、違う。エスカは唐突に理解した。
最初から、このつもりだったのだ。
エスカは膝から崩れ落ち、燃え盛る自分の世界を見る。
冬でもないのに、こんなに簡単に、早く燃えるはずがない。
先ほどのはただの茶番。初めから、こうして、追い出すつもりで。
熱を伴った風が、エスカの頬を撫でる。そして。
<――――――――!>
声の導きがあった。
強くなってきた陽射しの下、さらに強い炎の輝き照らす中。
エスカは慌てて炎の周りを、見渡した。
火をつけただろう、下男たちがいる。
紙束を抱えている。放火する前に、回収したのだろう。
小屋にあったものは、彼らが持っているようだった。ならば。
自らの足腰と心臓を叱咤し、エスカは再び立ち上がり、男たちに駆け寄った。
一人の腕に取りつき、涙をまき散らしながら叫ぶ。
「かぇ、かえして! わた、わたしの宝物!! かえし……ぅんぐ!!」
エスカは振り払われ、地べたに這いつくばる。
もう一度起き上がろうとしたところに。
「お前のガラクタはそっちだよ、化け物」
男たちの下卑た笑い声がした。
倒れたまま、視線を彷徨わせるエスカ。
<――――――――……>
声のする方に、目を向ける。
火の近くの、地面が映った。
「ぁぁ、あぁぁぁぁあぁぁぁ」
足腰に力が入らないエスカは、手と身で這うように進む。
炎に近づくほどに、肌が焼けそうになる。
煙が、煤が飛んできて、咽る。
けど止まれない。ドレスが汚れるのにも構わず、必死に這って。近づいて。
地面に散らばる、炎に巻かれる前の……彼女の宝物たちを、かき集めた。
折れてしまっている、ペン。
ヒビが入って欠けた、インク壺。
そこから出たインクで汚れている、何度も繕った服たち。
針や糸やハサミや、大事にとっておいた大切な手紙も。
みんなみんなみんなみんな!
壊れて汚れて穢されて!!
「あああああああああああああああああああ!!!!」
苦鳴と、嗚咽と、涙と、感情が、止まらない。
とまら、ないのに。
「お気に召したようじゃないかぁ、エスカァ」
その声を聞いた瞬間、エスカは体ごと凍り付いたように感じた。
この屋敷で、彼は唯一、エスカを名前で呼ぶ。
エスカは振り向けなかった。その悍ましいものを、見たくなかった。
彼女は、彼女の世界の破壊者が、父親以上に怖くてたまらなかった。
涙が流れる。許してほしいと、懇願するような気持ちが湧いてくる。
不意に彼女は、なぜいつもダイナに煽られると泣いてしまっていたのかを、理解した。
自分はその男の、人とは思えぬ歪んだ本性が……ずっとずっと、ただ怖かったのだ、と。
壊れた宝物を胸に抱き、あえぐように息をし、震える。
唇が、声なき声を紡ぐ。
たすけて。
だれか、たすけて。
だれか。
頭上の数字を、力なく見る。
声は、しない。
髪が掴まれ、引き寄せられた。
そして彼女の耳に、ねっとりとした声が滑り込んでくる。
「そんなに大事ならさぁ。一緒に燃えてこいよ」
ダイナはエスカを地面に叩きつける。
エスカは抵抗する気力もない。
震え、泣き続ける。
「おい、馬車があるからこいつ放り込んどけ。
ああ! その壊れたおもちゃも、一緒に積んでやれよ。
ハハハハハ、ハハハハハハハ!!」
彼は下男に指示を出すと、笑いながら満足そうに屋敷に戻っていった。
エスカは呆然と、あるいは決然と。
いっそ義弟の言う通りにしてやろうかと、そんなことを考えていたが。
男に掴まれ、持ち上げられ、馬車まで運ばれ、壊れた宝物ごと放り込まれた。
彼女には何の力もなく。
何の自由も、ないのだ。
エスカは馬車の窓から、燃え盛る愛する世界を見ていたが。
馬車は無情にも走り出し。
その終わりを見届けることすら、叶わなかった。
力なく滑り落ち、扉にもたれかかる。
気力と体力が尽きたエスカは、それでも顔を上げ、窓を見る。
窓の外には、何もない蒼天ばかりが、広がっていた。
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