第10話 もう一人のエスカ

 黒いのがエスカの目の前で、垂れ下がっていた髪をかき分けた。

 つい先ごろ、鏡の中に目にしていた人物の姿が、そこにあった。エスカの悲鳴が止まる。


(私……? いや、よく似てるが、違う)


 さすがに体型や肌の具合、やつれっぷりにそこまで差はないが、エスカとしては別人との印象を持った。

 悍ましい表情をしがちなエスカとは異なり、すっきりと可愛らしい女性だ。

 陰気でなく、生命に満ち溢れた様子で、好ましく思う。


 彼女を見て、不意にエスカは理解した。

 この子は、残機。あの声の主だ。ずっと一緒にいてくれて、いつも助けてくれて。

 そしてどうしてか、その名前までわかる。あのヒロインと、同じ名前。


 彼女の名は。


「め、メリー?」

「ええ。久しぶりね」


 久しぶり、と言われてエスカは困惑した。

 自分の姿をした謎のメリーさんに会ったのは、今日が初めてだ。


 力なく首を振る。


「…………? どうしたの?」

「初めて会う、と思う」


 推定メリーの眉根が寄る。

 そして……目尻が下がる。

 悲しそう、エスカにはそう見えた。


「そう。覚えているわけでは、ないのね」


 エスカの胸が、ずきんと痛んだ。

 ……それは忘れてはならないことだった、そのような気がしたのだ。


「ごめん、なさい」


 エスカの目の端に、大粒のしずくが溜まる。

 メリーは歩み寄ると、彼女の頬を、目元を優しく撫で。

 その頭をかかえるようにして、抱きしめた。


「いいのよ。ずっと出られなかったから、覚えていないのは知っていた。

 気にしないで。私たちの、エスカ」


 渇きの悪い布のような臭いのするエスカと違って、メリーはまるで陽だまりのようだった。

 優しいぬくもりに、エスカは思わず彼女の背に手を回し、髪をかき分け、抱き返した。

 メリーもまた、エスカの髪の中に手を差し入れ、その後頭部をそっと撫でる。


「いつも、ありが、とう、メリー」

「いいえ。助けてあげられなくて、ごめんね。エスカ」


 エスカは胸がいっぱいになって。

 結局、拭われたしずくは、零れた。


 あまり流したことのない、温かな涙は……思ったよりもすぐ止まり。

 エスカは、おそらくいろいろなことを知っているだろうメリーと、話さねばならないと思った。

 頭を撫でられるたびに心が落ち着き、思考が冷静になっていく。聞くべきことが、絞り込まれていく。


「……あなたはメリー? それとも、わたし?」


 言ってから、我ながら寝ぼけたような、抽象的な聞き方だとエスカは思ったが。


「両方ね。説明が難しいけれど……」


 エスカの疑問は、伝わったようだ。

 メリーが頭を傾ける。エスカと頬が、ぴったりと触れ合った。


「私たちは、99……いえ、あなたを入れて100人で一つの生命体。

 『ハッピー』と呼ばれていたわ」


 メリーの答えは明瞭で、しかし謎に満ちていた。

 いろいろ気になるところだが、エスカはまず、その皮肉な呼称に口元が歪んだ。苦笑いしそうだ。

 あまりにも、前世の自身の名前に重なる。


「人間には違いないのだけれども。このあたりのことも、やはり記憶にないのね」

「その、まったく」


 メリーがエスカを抱きしめる力が、少し強くなる。


「そういえば、どうして私のことがわかったの? エスカ」


 エスカは思案する。メリーの話は十分に荒唐無稽で……しかしすんなり理解できた。

 彼女もまた、自分の前世の話を受け入れてくれるだろうか。


「前の人生のことを、思い出したんだ。

 そこで」


 出てきた小説の人物の名が、なぜだか思い浮かんだわけだが。


「まぁ! やっと思い出せたのね! おめでとう!」


 エスカが言い終わる前に、少し身を離したメリーが、少し大げさなくらいに喜んだ。

 華やいだ笑顔。エスカはどきりとし、顔が少し熱くなった。


「急に思い出せたところは、少し気になるけど……大丈夫よ。

 内容自体は、私たちも知っているの。あなたの中にあるから」


 メリーの説明に、エスカは少しだけ聞いたことがある、記憶喪失の性質をイメージした。

 思い出せないが、情報自体がなくなったわけではない。

 記憶を失ったエスカ自身はわからないが、エスカの中にいる……メリーたちは知っていた、と。


 なお思い出せた理由については、答えるのをやめた。

 ご飯がうますぎて悟りに至って掘り起こした記憶だなどと、さすがにエスカも信じがたかった。


「…………なるほど、私のことは小説の『メリー』だと思われたのね」

「違うんだ?」

「わからないわ。その『メリー』はどこにもいなかった。

 私が同じ存在なのか、あなたがその代わりにいるのかは、誰にもわからないの」


 エスカは少し混乱し……まぁいいか、と思考を放棄した。

 本物のメリーがいない、というのなら。状況は、すっきりする。

 小説がこの現実を模しているとしても、メイルの妻になるのは、エスカの可能性が高い、ということだ。


 しかし、確実ではない。エスカが気にするべきは、そこだ。

 メイルの様子を鑑みるに、このままでは返品されかねない。

 あるいは、ロイズでその相談が今日明日にでもされる可能性もある。


 まずはなんとか、メイルを篭絡せねば。

 エスカはその高い壁に、決意を新たにする。

 もう手遅れかもしれなくても、僅かでも可能性があるなら抗おう。


 腕の中のメリーのおかげで、エスカは万の味方を得た気持ちになり、とても強気だった。自信に満ち溢れていた。


「大丈夫。メイル様はあなたのものよ、エスカ」


 何をどう見透かしたのか、メリーがそのように言う。

 エスカは思わず、変な風に顔を歪めた。

 メリーは自分と同じ顔でも、内面はだいぶ違うのだなとエスカは理解した。


「あの方は私をお好みではないよ」

「そんなことないわよ!ベタ惚れでしょうに」


 エスカは力が抜けて崩れそうになった。

 どこをどう考えたら、メリーの意見が湧き出てくるのか、さっぱりわからない。


「解説が欲しい見解だね」


 エスカがそう言うと、メリーはエスカをもう一撫でし、身を離した。

 ベッドの近くまで、スキップしそうな勢いで歩いていき、振り返る。

 少し楽しげに、あるいはいたずらっぽく、メリーはエスカを見て、言葉を続けた。


「ふっふーん。じゃあ恋愛経験皆無なエスカに、お姉さんが教えてあげましょう」


 まさかのお年上か。

 エスカは変なところが気になった。

 そして少し笑顔になる。エスカはこの陽気な分身が、すでにとても好きになってきていた。


「それはねぇ――――」


 しかしてメリーの声は、ばどん、というすさまじい音とともに、掻き消えた。


「ふぎゅ」


 何かに圧し潰され、エスカは自分の変なところから声が出たような気がした。


「エスカ様、ご無事ですか!!」


 扉を猛然と開けて、シフティが乱入してきたのだと理解したのは。

 エスカが扉に強打されて死んで、残機を減らして復活した、後だった。


 ふらつくエスカが、扉を押しのけて這い出た向こうには。

 短剣を両手に構える数人のメイドがいるだけで。

 メリーの姿は、どこにもなかった。


 エスカはがっくりと膝をつき、もう一人の自身の死を悼んだ。

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