第9話 エスカは逃げずに向き合いたい
これは無理だ。妻の務めは果たせない。メイルを見て、エスカは慄いた。
体の大きさに比例するとは限らないが、明らかに楽観できないサイズ感だ。
万が一その体格に見合ったモノならば、標準体型の女性ですら危うく感じるだろう。
エスカならば? 致せば死ぬ。無事で済むわけがない。子どもなど、夢のまた夢だ。
残機をためて挑む? 蘇ってすぐ死ぬが? 99機あれば一回分くらいは務めを果たせるか?
そんな考えがぐるぐると回り、また首を上げ続けたせいか血が上って、エスカはふらついた。
慌ててシフティが、その小さな体を支える。
ぐったりするエスカの目の前で。
メイルは、背を向けた。
「…………まだ、子どもではないか」
「ぉ、お言葉ですが旦那様!」
主人の物言いに、エスカを支える侍女がたまらず声を上げた。
「なんだ」
「エスカ様は、十分成熟しておられる方です!
ただ、ほとんどお食事をとられてこなかったご様子。
体にはむち打ちの跡すらあって……はっ」
シフティが息を呑んだ。
エスカは……他人のする見慣れた感情の発露に、少し落ち着いた。
彼が、怒っている。何に対してかは、エスカにはわからなかったが。
「少し出る」
「旦那様!?」
扉の向こうから、別の男性の声がする。執事だろうか。
「退け。これは文句を言わねばなるまい」
不良品を押し付けやがって、ということだろうか。
(…………少しは自分の価値を見せねば、私はあそこに、戻されてしまうかもしれない)
……それは嫌だ。なんとしても避けねばならない。
できるだけ深く息を吸って。エスカは侍女の力を借りずに立つ。
まだ少し乱れていた衣服を、きちんと整えてから。
「……メイル様」
執事に押し留められていたメイルに、声をかける。なるべく、上を見て。
首が疲れるが、せめてきちんと声を届けなければと、エスカは毅然と彼を見た。
「…………なんだ」
「エスカと、申します」
震える体で、エスカは足を引き、スカートの裾をつまんで、深く頭を下げた。
呼吸を深くするごとに震えはおさまり、手足の先まで意思の通った、美しいカーテシーになっていく。
俯くエスカの目には、メイルの靴だけが映っていたが。
彼は半身だけ、こちらを向き直ったようだった。
視線を向けられていると理解し、エスカは言葉を続ける。
否、続けようとして……ふと惑った。
自分のことを顧みて。自分の立場を鑑みて。
このような女を妻にしろなどと、身勝手だ。エスカはそう、思うのだが。
逡巡し。
「かような身ではありますが、お相手には問題ございません。
どうぞ、末永くお使いくださいませ」
そう、口走っていた。
「っ!?」
メイルがはっきりと息を呑む様子が、エスカにも伝わった。
何に驚いているのかは、よくわからなかったが。
だが驚いているのは、エスカも同じだった。
何か強烈に沸き上がるものがあり、つい相手をすると宣言してしまった。
使用人だって聞いている。はしたないにもほどがある。そも使えとはなんだ。言葉を選べ自分。明らかな失言に、嫌な汗が浮いてくる。
しかし彼女は、その熱のような気持ちをおさえることができなかった。
不思議な高揚と、期待があって。
さらに誘うような続きすら、口から出てきそうだ。
だが。
「……そのようなことを言うな。いらん世話だ。休んでおけ」
上から降ってきた抑揚のない冷たい言葉に、エスカの熱が一気に冷めた。
姿勢を直して見上げると、また綺麗な瞳と、目が合う。
彼女の……よく知らない類の感情が、そこで揺れていた。
それが何なのかをエスカが理解する前に、メイルは踵を返し、扉を潜って廊下へ出て行った。
足音が、遠ざかっていく。
「ぁ」
小さな声が自分のものだと気づくのに、ずいぶんかかった。
いつの間にか扉の方へ向けて伸ばされていた手を、エスカは力なく下げる。
気遣われた、のだろうか?
あるいは興味を、持たれなかったか。
…………その可能性に、エスカは身震いした。
不安なのか、羞恥なのか、それとも別のものなのか。
エスカはその細かな震えが、しばらく止められなかった。
◇ ◇ ◇
夜半。
改めて自室として案内された先の、ふっかふかのベッドで休むエスカ。
…………眠れるわけがなかった。
いろいろありすぎたのもあったが、そもそも日中に気絶している。
その上で、先のやりとりだ。
エスカは今更ながらに、少し怒っていた。怒りで眠気が吹き飛んでいる。
あそこまで言わせておいて、あの冷たい態度はないだろう。
そもそも、自分を名指しで請うたのはメイルの方だ。何が気に食わないというのか。
メイルの顔を、あの瞳を思い出すたびに、エスカは少し紅潮し、心中で愚痴る。
興奮と、それでも寝ようという気持ちが相反し、だんだんと寝返りが激しくなった。
横を向いて。反対にもんどりうって。うつ伏せになって布団に埋まり、呼吸が止まって、慌てて仰向けに戻り。
姿勢をあれやこれや変え、ついにはなぜかエビぞりになって。
…………やはり寝付けなかった。
これ以上はダメだ。下手なことをして死ぬ可能性すらある。
エスカは諦めて、泳ぐようにしてベッドから這い出た。
自身の髪が引っかからないように抱え、着乱れた寝巻を直しつつ、寝台のふちから床へと慎重に降りた。
絨毯が敷かれており、冷たくない。ふかふかしていて、温かみすらある。エスカは幾度か足を上げ下げし、その感触を楽しむ。
素足で踏むものでもなかろうが……心地いい。よく手入れされているものと感じる。
寝台から落ちて死んだことは何度もあるが、これなら転がるだけで、簡単には死ななそうだ。
暗い中、エスカは部屋を見渡し……姿見を見つけた。
ちょうどよい角度なのか、エスカの全身がしっかり映っている。
(……ひどい姿だ)
エスカは思わず、苦笑いを浮かべた。
真っ黒な髪の隙間から寝巻や肌が僅かに覗いており、暗闇も相俟って完全にお化けの様相を呈している。
なお、彼女が一番化け物らしいと思ったのは、その笑顔だ。歪んでいる。
一しきり笑い、少し反省した。この見た目では、メイルに冷たくされるのは当然だ。
例の小説のことや、体格の件はあるものの。まずはメイルの嫁にならなければ、実家に返され、即破滅だ。
エスカはなんとかメイルに気に入られることを、当面の目標とすることに決めた。
そして、ふと。
(ん? これは、なぜ……)
エスカは鏡に映る、黒以外の色に気が付いた。残機だ。
食事をとったのに、増えていない。「x0」となっている。
今までなら、あのくらいの量でも増えた。だから頑張って食べたという面もあるのだが。
鏡に近づきながら、しげしげと数字を見る。0から変わらない。見間違いではない。
見上げてみても、直接見える数字は0のまま。
角度が違うのに0と認識できるのは、少し不思議だ。
それに。何の声もしない。
いつもなら、これだけ眺めていれば何らかの反応が返ってくるものなのだが。
ここのところずいぶん助けられたから、改めて礼を言いたい。だが数字はどれだけ見てもだんまりだ。
首が疲れてきたエスカが、正面に向き直ると。
鏡の向こうに映るベッドの中で、何かが激しく蠢いていた。
(…………は?)
理解が追いつかない。先ほどまで自分が寝ていたところに、何か不可解なものが、いる。
その何かはベッドの端まで辿り着き、ぼとり、と床に落ちた。
床に落ちたそれはしばらく震え、そしてもぞもぞと絨毯の上を這い出した。
エスカの方に、向かってきている。
(ひっ)
エスカは声の出そうになる口元をおさえ、後ろを振り返る。
鏡に映るものと同じ、黒いもさもさしたものがやってくる。
鏡を見る。やはりそれが近づいてくる。
エスカは思わず前の、壁際に逃げた。振り返って姿見の脇の壁に背を寄せ、右に逃げようか左に逃げようか迷う。
左には扉。だが開けている間に追いつかれそうで怖い。
右の窓は少し遠い。いや、そもそもここは二階だ。あそこから飛び出たらエスカは死ぬ。残機は0なのだ。
迫るもさもさから、扉に向かって壁伝いに逃げるエスカ。
その黒い闇の奥から、何か瞳のようなものが覗いて――――
「起きていたのね、エスカ」
その言葉の意味を理解する前に、エスカは悲鳴を上げた。
とても女子らしくない汚い叫びが、夜の屋敷に響いた。
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