第8話 エスカの問題。夫婦の課題

 エスカは背中にひりつきを覚え、まどろみの底から意識を引きずり出された。

 誰かの……少しかさついた手が、自分の背に触れている。水仕事をする手だ。しかもゴツゴツしていて。

 その手が慎重に、優しくエスカの背を撫でている。これは、あのメイドで間違いない。


(シフティ。優しい手……)


 薬かなにかを、塗り込んでいるのだろうか。おそらくは、かつて鞭に打たれたところに。

 ヒヤリとしたぬめった液体の感触に、傷跡はかえって熱もつ。

 しかしエスカは、触れられるだけでわかるその手の長年の苦労と、今かけられている慈しみに、胸の奥まで熱くなるような思いだった。


 そうしてそのまま、気を失う前に思い出したそれらから、目を逸らしていたかった。

 だが現実は非常だ。その記憶はしっかりと、エスカの脳に刻み込まれていた。


 『前世』『地球』『乙女ゲーム』。

 一度眠ってしまったことで、彼女に完全に統合された異質な記憶。


 エスカの前世の名は、幸野こうの 幸夜香さやか

 たいそうお幸せな名前だが……実は今世とそう変わらない人生だった。

 被虐待児で、長じて搾取され続けていた。


 亡くなってこの世界のエスカに転生しているわけだが、死因は餓死寸前に急激にものを食べたこと。

 なおその品は、それはそれはおいしい、お取り寄せ品のフルーツだった。

 どう考えても、死にそうな人間が食べるものではない。彼女はそれを、貪り食って死んだ。


 親元からようやく逃げ出すことができた、暁のことだったのだ。

 どうしても自由を得て最初に口にするのは、憧れのお取り寄せ品にしたかったのだ。

 仕方のない事件だった。エスカは内心で、幸夜香さやかの魂を慰めた。


(前世の私。あなたの無念は、晴らしたから)


 そして遠い過去からの自らの魂の成長を思い、少し涙がこぼれそうだった。

 今回は、勝ったのだ。得難い勝利だった。

 本当に泣きそうになってきたので、エスカは別のことを考え始める。


 気になっているのは、乙女ゲーム……正確には、幸夜香さやかの愛読書。

 それは女性向け恋愛ゲーム『アバター☆ラブ』の、ある攻略対象にのみフォーカスしたスピンオフ小説。

 主役は、エスド子爵メイル・ウィンドその人。


 ゲームでは、彼の妻が嫉妬に狂って怪物となり、メイルや聖女たちの力で倒される。

 傷心の彼を、主人公の聖女が癒し、結ばれる……という流れなのだが。

 小説ではその妻との甘やかな日々と、破滅の結末を描いている。


(その妻は、私ではない)


 名は「メリー」。出自こそロイズだが、虐待されてなどはいないようだった。

 もちろん、三十路間近の醜い女でもない。

 降ってわいたその情報を、エスカは慎重に吟味する。


 もし、人物が異なるだけで、結局役どころが同じなのであれば……エスカはメイルの妻となり、愛し合うことになる。

 だが小説やゲームの通りなら、いずれ嫉妬に支配され、怪物となり果て、討伐されてしまう。


 その逆で、本当はメリーという人物がいて、自分が何かの間違いで妻になろうとしているのなら。

 エスカの婚姻は成立しないか、後から離縁されるということだ。実家に、返される。


 どちらであっても、エスカは破滅する。


(ひどいものを思い出してしまった……)


 エスカはげんなりとした。

 ただの創作物だと、見なかった振りをしたいところだが。

 嫌な符号が、多すぎる。


 エスカは自身が羨望――――嫉妬に心かき乱されることを知っている。

 残機という、不思議な性質のこともある。

 軽視できない。


 ため息を我慢し、思わず体が強張った。


「っ、申し訳ありません、エスカ様」


 傷に染みたわけではないのだが、シフティに謝られてしまった。


 エスカは声のした方を、緩慢に向く。

 そばかすが少し残る、若い……女性の顔が、目に入る。

 シフティが、彼女を心配そうに見ていた。


 エスカは声を出そうと思ったが、出なかった。

 口は乾いていないから、うつ伏せにされていることが原因かもしれない。

 なんとか肩を持ち上げる。鼻から、喉を通り、肺へ……新鮮な、しかし少しすすけたような空気が、入ってくる。


「ぃぃ、の。よ」

「傷に、染みませんでしたか?」

「いたみは、なれて、いるから」


 シフティの少し丸く、大きな瞳に。

 大粒の涙が、溜まっていく。


(…………いたい)


 エスカは締め付けるような胸の痛みを感じ、思わず顔を伏せた。

 ……さっきのは前世のことを考えていたせいだなどと、口が裂けても言えなかった。


「お休みの間に、エスカ様を医者に診せました。

 お体には大事ないとのことですが、魔法が効きませんでしたので、軟膏を塗らせていただいています」


 医者。倒れたから、急遽呼んでくれたということか。

 あるいはこの能高い侍女のことだ、食事に案内する過程で、並行して呼ばせていたのかもしれない。

 窓からはまだ赤くない陽射しが入っており、気絶していたのは僅かな時間だとエスカは悟った。


 しかし医者を呼ぶなど、安い話ではない。

 少しの礼を言いたくて、エスカは顔を上げる。


「そう、ありがとう」

「いいえ。お構いなく」


 エスカが俯いている間に、侍女の涙は拭われていた。跡もない。

 それどころか、優しい笑顔で迎えられた。かえって気遣われているようで、エスカは少し気恥ずかしくなる。


 その時。


『なぜ誰も出迎えん!!』


 獣の咆哮のような声が、少し遠めから、しかしはっきりと響いた。


「ぁ。今日お帰りになられるなんて」


 シフティが呟き、エスカの身を引き起こし、衣服を少し整えてくれた。


 これは、当主の声ではなかろうか。エスカはそうあたりをつけた。

 明日戻る、という話だったメイル。

 しかし彼は魔物を退治し、もう帰ってきたようだ。


『俺の花嫁はどこだ!』

『お待ちください旦那様。お客人は今、お休みで』


 …………思ったより、近くから声がする。

 エスカはベッドから降りた。


「ごあいさつ、しなくては」


 ふらつき、シフティに支えられたところで。


「ここか!!」


 扉が乱暴に開けられた。


 エスカはゆっくりと見上げる。

 大きい。頭が扉の上端付近にある。

 エスカの記憶には小説やゲームにある「たいそうな偉丈夫」という記述があるが、なるほどと思った。


 遠征から戻ったにしては、彼は何の鎧も纏っていなかった。

 だが整った服装の上からでも、鍛え上げられた体がはっきりとわかる。

 凛々しい顔。短く整えられ、薄く灰がかった、きらきらした髪。


 首をほぼ限界まで上に傾け、そのはしばみ色の瞳と、目が合って。

 エスカは直感した。


 これ、致せないな、と。

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