第二章

第7話

 とうの前に昼は過ぎた。だが誰も昼餉を食べていない。


 私はまだしも、食べ盛りの黒羽丸には辛かろうと思う。何より黒羽丸くろばねまるは人魚を乗せた荷車を引いているのだから。


 後ろを振り向いて黒羽丸の顔色を見る。涼しげな表情が逆に心配を煽る。そして視界に嫌でも入ってくる人魚の姿が憎い。


 人魚が自分を見ていると勘違いして顔を伏せた。別にお前を見てはいない。


「黒羽丸、やはり私も後ろから押したほうが良いんじゃないか」

「だめ、です。これは、僕のお役目、です」

「そうか」


 何度聞いてみてもこの調子だ。


 やる気に水を差すのも良くない。せめてこの先の熊川宿で休ませてやりたいが。


 熊川宿は鯖街道の若狭側の始点だ。鯖街道は若狭でとれる鯖や甘鯛などの魚介や、北前船の交易品を京へ運ぶ流通路の一つである。


 人目には付きやすいが、荷車を安全に通行させるなら整備された道のほうがいい。そも、この時期は魚の水揚げも北前船の来航もない。人の往来も少ない。


「あのっ、比丘尼さまっ」


 人魚が声を掛けてきたが、黙殺した。


顕龍院けんりゅういんさま。お呼び、です」


 この時ばかりは黒羽丸を疎ましく感じた。


「黒羽丸。その人魚と口を利くな」


 すると黒羽丸は黙った。気落ちしているのが様子を見ないでもわかる。


「やっぱり、わ、わたくしを恨んで、いやっ、お恨みなのです、ね」


 人魚は一々、使い慣れていない言葉を使って話しているようだった。


「でもわたくしは、ぜひ、比丘尼さまとお話を……したくて」

「では私がお前と話さないようにする理由を教えてやる」


 荷車を止め、人魚を睨み付ける。


「お前はこれから、あの浅岡という男に貰われるんだ。その結末はお前が想像も付かないほど無惨だぞ。台所の野菜と同じように切り刻まれて弄ばれるだろう。そのような運命にあるお前と話してどうする」


 残酷な将来を伝えたことで人魚は怯んだ。薄い紅の塗られた唇に力がこもる。


 もう言葉を話さないだろうと思い、黒羽丸に進むよう促した。


 荷車が再度動き出す。


「わ、わたくし、翠姫すいひめと言い……いえ、申します」

「なに?」

「わたくしにも名前、があるので……。その、おっしゃっているような惨い目に遭う前に、せめて人として、名前を呼ばれたくて……」


 意外にもふてぶてしい人魚だ。姫というからには、海の中ではそれなりの血筋で通っているのかもしれない。


「わた、わたくしも、比丘尼さまのお名前が知りたいの、です。八百年前に海岸で泣いていたお父さまに鱗を渡してから、わたくしはどうしてもお会いしたいと、思っていましたから」


 くだらない。


 この翠姫とかいう人魚は、自分のやった行いを八百年も後悔してきたとでもいうのか。


「お願いです。比丘尼さま。顕龍院というご法名ではなく、本当のお名前を教えて下さい。あるいはせめてわたくしの目を見て、お話をして下さい……」


 なんて耳障りな哀願だ。


 どうせ自分にもなにか理由があって、ゆえにやむを得ないから赦せとかいう話だろう。


 それで私の八百年の怨みがはれるものか!

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