第37話

 黒羽丸の槍を捌いているその後ろで、浅岡はゆっくりと左手を前へ突き出し、いんを結んで構えた。


鉤召ジャク


 突如脚がもつれる。体勢が崩れ、互角に打ち合っていた剣筋が乱れる。首のすぐ横を槍がかすめ、毒液の飛沫を残していく。


「浅岡、お前!」

索引ウン

「つっ!」


 上体が黒羽丸のほうへ引きずられる。引きずられる速度と黒羽丸が突っ込んでくる速度が掛け合い、私が認識できる速度ギリギリのところで躱すことになった。


 浅岡の唱える真言は私の動きを一々妨げ、勝ち目を一つ一つ潰していく。


鎖縛バン


 左手が凍り付いたように動かなくなる。やむを得ず右に刀を持ち替え、片手で打ち合いを続ける。能面を貼り付けたような黒羽丸の顔が常に私を捉え続け、息つく暇もない。


「御仏に帰命もせずに真言を使うとは! 貴様、一体何様のつもりなのだ!!」

遍入コク


 一瞬意識が飛び、串刺しになりかけた。最後に唱えたのは意識の掌握に関する真言だが、先ほどから浅岡はわざと手を抜いている。


「び、比丘尼さま……!」


 翠姫すいひめが心配して叫ぶ。もはや彼女を守るどころか自分の体を守ることも危うい。一回目の詠唱の効果が薄れてきてはいたが、またやるのだろう。


 今度はさらに深く。


「先生。いくら先生が御仏に使える身であろうと、所詮はただの村娘です。物質界と精神界を裏側からどうとでもできる僕に、抗おうなんて無駄なんですよ」


 浅岡は渾身の、得意げな笑みを浮かべた。黒羽丸は一度浅岡の側へと戻り、まるで「最初から自分の主はこの方」と言いそうな目線を向けてくる。


 私が攻めあぐねて歯がみしていると、突如歓声が上がった。


 蝎獅かつしの太い、大蛇のような尻尾が斬り飛ばされていた。正面で槇や同心が囮になり、捕り手が刺叉で動きを封じ、城趾の裏側から戻ってきた新島にいじまが背後から一太刀入れたらしい。


「チッ」


 浅岡の眉根がしかめられる。傷ついているとはいえ、蝎獅が生身の人間にあさこまで抑え込まれるとは思っていなかったのだろう。


「黒羽丸」


 浅岡に呼ばれ、黒羽丸は猟犬のように飛び出していく。ようやく蝎獅を倒せるところまできたのに、そんなところへ黒羽丸まで入ってしまったら。


「くそっ!」

鉤召ジャク


 また体の動きを咎められた。今度はかなり深い。足の裏がまっすぐ地面に吸い付かず、もつれて浅岡の目の前にひざまずくようにして倒れ込んだ。


「あはは。先生。鉤召こうちょうの意味に相応しい姿ですね」

「善なる法をこんな……ことに……!!」


 浅岡は翠姫に目を向ける。視線に射すくめられて翠姫は慄然としたが、血を抜かれた体で逃げられるはずがなかった。


索引ウン

「あっ。い……や……っ」


 翠姫は力の入らないはずの体をよじらせ、湿った地面を這い寄ってくる。真言が強力で、動かないものすら動くようになる。


「痛いっ! 痛いやめて! やめ、て……」


 冷えた礫の混じる土の上を容赦なく引きずられ、翠姫の脚の皮は摺りおろされていた。刺された腹の傷も疼いているにちがいない。


「きさまぁっ!!」

鎖縛バン


 戒めが弱まったところで飛びかかろうとしても、間髪入れずに新たな真言を叩きつけられる。今度はどれだけ力を入れても両腕の硬直がとけない。


「さて、どうしますかね」


 もはや視線しか動かせなかった。

 側に翠姫が引きずられてくる。彼女は痛みと恥辱にまみれて嗚咽を漏らしている。


「先生。次の真言は人心掌握の効果があるのですが」

「私の意識を傀儡同然にしようとでも?」

「ええ。それじゃあ夫婦とは言えませんけど。オツではありますから」


 目の前まで迫った浅岡は、ひざまずく私の髪をひっつかみ、力任せに顔を振り向かせる。


 蝎獅によって追い回される京都所司代の同心たちや捕り手が見えた。そして槇と新島は黒羽丸に翻弄され、圧倒されていた。


「先生。あの二人、どういう関係なんですか?」

「知らん」

「へえ、そうですか。じゃあどんな死に方をさせても良いですね?」

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