第36話
私たちは部屋を飛び出して来た道を戻った。
浅岡はすでに逃げおおせたのだろうか。
「比丘尼さま。お怪我は……」
「大事ない」
「なんで、こんなところに」
「報酬も貰っていないのに、お前を奪われたからだ」
「そう、ですか」
翠姫はそのつもりはなかったのかもしれない。だが彼女の憔悴した声は、私の取り繕った返事を咎めるようだった。階段にたどり着いたところで、私は言い直すことにした。
「もうお前は十分後悔してくれた」
「え?」
「これ以上、お前を生きづらくさせる理由はない。だから助けに来た」
階段を勢いよく駆け上がると、腕の中の翠姫が顔をしかめた。
「傷がうずくか。すまん」
「いえ」
翠姫は目をつむっているが、耐えて力を込めている様子はない。
「もったいない、です」
翠姫が何を言っているのか理解して、私はこれまでの態度を悔やんだ。この娘は心の底から、私に赦して貰いたくてここにいるのだ。
どうしたら安堵してくれるか。そんなことを考え耽っていると、足を床の敷石に取られそうになる。
「おかしい」
先頭を行く槇のつぶやきが、私のことを咎めているのかと思って驚いた。だが彼の意識は違うことに向いていた。
「誰もいない」
第二階層まで上がり、第一階層へと階段を駆け上がっても誰とも出会わなかった。それどころか上へいくにつれ、外の騒がしさが響いてくる。
「槇。いつでも抜けるようにしておけ」
***
穴から外へ出ると、地面を覆う雪が光で目を灼いてくる。そのまぶしさになれてくると、危惧していたことが起こっていた。
右後ろ足を失った
「相手をしたくないって言ったそばから!」
「刺叉で牽制しろーっ!!」
「囲め囲め! 突っ込んできたら鼻っ柱を叩け!」
捕り手たちは手慣れた様子だ。本業が狩人という者もいるからだろう。特大の熊ぐらいに見えているのかもしれない。
「ちょっと行ってきます」
「ああ」
野暮用を済ますかのような雰囲気の槇を見送り、私は翠姫を抱えて遠巻きに見守ろうとする。
「比丘尼さま」
「なんだ」
「あれは?」
「浅岡の
「ご本人は……?」
「逃げたか、さもなくば」
刹那、嫌な予感に襲われた。それにつられ、私は反射的に背後を振りかえった。
目の前に、まだ幼さを残した顔が迫る。駿馬の尾のような髷を揺らし、見開かれた眼にはかつての人なつっこさは残っていなかった。
「
毒で濡れた槍を腕から伸ばしつつ、黒羽丸は足元に滑り込んでくる。
「くっ!」
飛びこんできた第一撃を刀で受け流したが、代わりに翠姫を乱暴に逃がすはめになった。短い悲鳴をあげて下生えに投げ出される翠姫に、私は「すまん!」としか声をかけられない。
瞬きもせずに両腕の槍を連続で突き込んでくる黒羽丸を相手に、私は体勢を立て直すので精一杯だった。
「黒羽丸、正気になれ! おいっ!」
「先生。黒羽丸なんて存在は、この世にいなかったんですよ」
浅岡の声がした。
黒羽丸のすばしっこい動きに注意を払いながら浅岡を探と、やつは地面でぐったりとしている翠姫の側にいた。
「寄るなぁっ!」
小刀を抜いて浅岡の喉笛目がけて投げつける。命中はしたものの、それは紫色の炎をあげて消えた。
急いで翠姫に駆け寄ると、彼女は座って上体を起こせるぐらいには回復していた。
「怖いですね、先生」
「当たり前だ!」
蝎獅とやりあっている槇や同心、捕り手たちを背に黒羽丸が佇む。私たちと槇たちを分断するつもりなのだろう。そんな思惑を雪で湿った地面から染み上がってくる冷気を感じつつくみとっていると、黒羽丸の背後に気配が生まれた。
透けた黒い影が成人男子の背丈に伸び、そしてずるりと黒羽丸から剥がれる。それはさらに形を得ていき、見知った浅岡の顔と鈍色の骨組みをまとう体になった。
「なんだ。体は壊れたんじゃないのか」
「体は財産ですからね」
忍び装束のような着物だが、腕や足、そして背などの骨に沿うように鋼の枠が這っている。それらにはビッシリと紋字が刻まれていて、青白い燐光を波打つように放っていた。
「再利用できるなら、しますよ」
この状況、どう見ても浅岡たち二人を一人で相手取らないとならないらしい。しかも翠姫を守りながら。
刀を下段に構える。ここは防御に徹するしかない。
「先生。ここで待ち伏せされていた意味、分かりますよね」
打ち鳴らされた浅岡の指に呼応し、黒羽丸が飛び込んでくる。こちらも前へいくらか出て、翠姫に累が及ばないように迎え撃つ。
「どうせその魚と、先生の一部でも手に入れば良いんです。存分に嬲らせていただきます」
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