第五章
第19話
唇に、何か柔らかい物が触れた。それは唇を濡らし口を湿らせていく。
水滴の音と空気が響く様子からすると、どこかの洞穴に隠れたか。
「ぅ……」
体を動かそうとするが、縛り上げられたように動かない。
「比丘尼さまっ」
安堵した
「よくご無事で……! わ、私。心配で……っ」
「なぜ」
「だって、体があんなに裂けてっ」
「お前とて同じだろう。あれぐらいで死ぬかよ」
「………っっ!!」
翠姫は珍しく癇癪を起こした。私の唇を濡らしたと思われるてぬぐいを放り出し、そっぽをむく。
暗がりに目が慣れて気づいたことだが、翠姫は
だが背中の柔らかい感覚が、私が彼女の袿に寝かされていることを教えてきた。
「
「私たちを運んだ人形を捨てに、外へ行きましたっ!」
「そうか」
洞窟の入り口を見やると、氷雨がぼた雪に変わっている。さらに道が悪くなった。
そしてこの体の壊れ方。
丸一日は動けないだろう。
「私はどれほど気を失っていた」
「半日は……。夜を越して、今お昼時です」
だとするとさらに時間がかかりそうだ。
視線を胸元に送ると刀傷が見える。零れる血も臓物も無かったが、左胸まで裂けた体は醜く縫われたままだ。
いや。
縫われている、だと?
「誰が、縫った」
「あっ……ごめんなさい。そのっ、私、が……」
「なぜ」
「だ、だって、すぐ治るはずなのに全然塞がらなくてっ」
氷雨と強行軍で消耗していたからだろう。普段から粥ばかりの生活で体力が無いのも一因かもしれない。
「それと勝手ですけど、お召し物も替えましたっ……。切り刻まれて、ボロボロでしたから」
こんな女に面倒を見られるなんて。
私はこの女を、浅岡の供物として運んでいるのではないのか。
この女はなんで私を捨て置かない。そのほうがどれだけ楽か。
「お、怒っていらっしゃいますね? すみません。勝手に、服を……」
「いや。血で汚れていたなら、当然だ」
翠姫は意外そうな顔をした。
「お前の世話になる奴が間抜けなだけだ」
我ながらなんて面倒な話し方をするんだと思う。自虐なら独りで吐くべきだ。
「あのっ、お粥があります。食べられますか?」
「ああ」
すると翠姫は膝立ちをして、ヨタヨタと洞穴の奥へ向かっていく。
「お前、立てるように?」
「こんな修羅場が連続するんですもの」
椀へ粥を注ぐ音がする。いつもより濃く、重そうだ。
「それに私、
「なぜ」
「あなたを探している間、海鳥たちの噂話を沢山聞いていましたから」
翠姫が椀を片手に戻ってくる。
「あの、ちょっと、熱いかもしれません」
木の匙に乗る粥をふうふうと冷ましていると、何かに気づいた。
「あっ、ご、ごめんなさい! いっ、いやです、よね……つい……」
「今さらだ。構うな。今はお前と立場が入れ替わっているんだからな」
唇に近づけてもらった匙から粥をすする。
疲弊した体に塩味が沁みていく。小豆より米が多めに見え、水分が少ない。
「熱くないですか?」
「ああ」
「どっちです?」
「熱くない」
「よか……っ、いえ。わかり、ました」
翠姫は粥をよくかき回し、練って、冷まして口へ持ってくる。
「良かったと、言いたかったのか」
翠姫は頷いて返す。
「勝手に言えば良いだろう。私はこの通りだ。前のように発狂することもない」
「いえ……」
思い返せば人に面倒を見てもらったのはいつぶりだったか。
「あっ!」
物思いに耽っていると、ぼたりと胸元に落ちた粥の熱で意識が引き戻される。
「良い。よく冷ましてくれているから、大事にならん」
「あっ……はい……」
一々怯えて、こちらの顔色をうかがって、忌々しい。
いや、私がそうさせているのか。
「とりあえず、ゆっくりお休みになってくださいね」
私が粥を啜る音が洞窟の奥へ響いて吸い込まれる。
弱々しく燃える火が時折小さく爆ぜ、火の粉が天井へ散っていく。翠姫の顔がちらちらと火に灯され、人魚らしい髪色や瞳が火の色で塗りつぶされて均一に見える。
そこに、いままで唾棄していた人魚の姿はなかった。
彼女も私とおなじヒトだと、今更ながら気づかされた。
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