第20話
「なぜ逃げない」
私は翠姫に尋ねた。彼女は、質問の意図がつかめていないようだった。
そもそも、世話を焼いてくれる人にいう言葉ではない。
「膝立ちでもなんでもいい。私が動けない今が好機だろう」
「わ、私が逃げてしまうのは、あなたが困るでしょう……」
「なんでお前がそんなことを心配する」
翠姫は言葉に詰まった。
「に、逃げてほしいん……ですか? 私、にっ」
「いや」
私は翠姫から視線をそらした。
「逃げられてもいい。その程度だ」
何を言っているんだと、我ながら思った。さすがに様子がおかしいと思ったのか、翠姫は粥の匙をゆっくりとひっこめる。
「あ、あの、お休みになられたほうが良いです。私は、すぐ側にいますので……」
そう言い残し、翠姫は離れていく。たき火にかけられている小鍋をどけて、
戸惑ったか。
お前のせいだ。お前が私と会話をもち、名前を知ってしまった。明日絞める鶏に名前をつけることがないように、名前には殺生をためらわせる力がある。
いま、私は面倒を見られ、優しくされてしまっている。いざとなったとき、私は翠姫を浅岡への贄として捧げられるのだろうか。
「いっ……!」
にわかに、痛みが体を支配した。傷が修復されてきて、耐えられる許容を肥えたために遮断されてきた痛みが、許容できる閾値まで降りて来たらしい。
ふざけるな。これが人間が耐えられる痛みか。
「どっ、どうしたんです?」
私のうめき声に気づいた翠姫が近づいてきた。
「い、いた……い」
「治ってきたんですね。少しの辛抱です」
「ふざけるなっ! こ、こんなの……っ」
奥歯が鳴る。脂汗が額から絞り出され、体力が尽きている体をよじり、逃げられるはずの無い痛みから逃げようとする。
「……痛い! 痛い痛い!」
「う、動かないで! 動くと傷が! 縫った傷がっ!」
右脇から左胸にかけて皮膚がつっぱり、繋がりかけた肉が引きちぎれる感覚がした。やがて赤い体液が漏れ出てきた。
「う、動かないでっ! 動かないでよっ! 傷がっ……開いちゃうよぉっ!」
もがく私の体を制しようと、翠姫が押さえつけてくる。私だって、動けば動くほど傷が開くのは分かっていた。
「死にたい! 殺してくれ……! もう嫌だ……こんな痛いのは……」
いつの間にか私は布団代わりの袿から離れていた。背中が地面の岩に打ち付けられて刻まれる。
「ぎぃ、ぃ、い!! い、いだ……い。イタイ! イタイぃぃ!」
私の絶叫は洞窟をこだまして暗闇を支配し耳を聾した。やがて自分の悲鳴も翠姫の励ましの言葉も聞こえなくなる。
いよいよ、阿鼻叫喚の苦悶に満ちる肉袋に堕ちた。
「痛い! いたい! いだぃ、い、い!」
「もう少し辛抱してっ……! すぐ、すぐ落ち着くから、大丈夫……だから!」
翠姫は顔を真っ赤に歪めている。ボタボタと雫が目からこぼれ、食いしばる歯の奥からかすれるような悲鳴が漏れる。
私は無様だった。矢じりを抜き取るときよりも遙かに激しい苦痛を前にして、疎んでいた者に励まされながら、小娘のように泣き叫ぶなんて。
これに等しい、生きながら切り刻まれる苦痛を、翠姫に味わわせようとしていたのか。
無理だ。こんなものを誰かに共有させたくはない。
共有させる必要はない!
「——めんね、ごめんねっ……」
耳に音が戻ってきた。翠姫が耳元で悲鳴交じりに囁き、嗚咽を漏らしている。
相変わらず悲鳴を上げそうな疼きが体を支配しているものの、自制心を取り戻すことには成功した。
体の修復が進んだらしい。
自分が喘鳴していることや口角が泡で濡れていること、断ち割られたばかりの心臓が、血を漏らしながら早鳴っていることを感じられるほどには冷静になっていた。
「これ以上苦しめないで……っ。お願いですっ。何も、何も悪くないのにっ……」
私が戻ってきたことに気づいていないのか、相変わらず翠姫は私に覆い被さり、耳元で祈るように囁いている。
「おい……」
私のしっかりした声に驚いた翠姫は飛び跳ねるように体を起こした。着物には傷口から漏れた血がべったりと染み付いていた。
「ご、ごめんなさい……。体、その、動かないようにって……その……っ」
「分かってる。少し、落ち着け」
「だ、だって傷が……」
「もう、耐えられる痛みにまで落ち着いた」
すると翠姫の眉から力が抜けた。
「騒ぎすぎた」
恥ずかしくなって顔を背ける。
「ゆるせ」
「な、何もゆるすことなんて……」
落ち着いてきた私の息づかいと翠姫の嗚咽が洞窟を満たしていた。
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