第21話

「あの、これを……」


 翠姫が湯を差し出してきた。たき火の明かりでわかりにくかったが、桜色に濁っている。


「なんだこれは」


 上体を起こせるまでに回復した私は居心地が悪かった。痛みに泣きわめいていたとき、翠姫は私と感情を共有して泣いていた。


 そんな彼女に、私はどういう態度でいればいいか分からなかった。


「私の鱗を……煎じました」


 嫌な記憶が突沸しそうになるが、耐えた。


「なぜ」

「体力が付きますから。不死になるだけではないんですよ」


 諭すような翠姫の声は落ち着いていて、悪気を感じない。


 私は意地を張らず、素直に桜色の湯に口を付けた。普通の湯よりも飲みやすいそれは、とろみがあるというか、舌に纏わり付きながらもすっきりと消えていく。


 熱さに舌を鳴らしながら飲む私を見ている翠姫は、いつになく穏やかだった。


「さっき、お前は誰に、何を懇願していたんだ」

「……神仏に、あなたをこれ以上苦しめないでほしい、って……」

「私はこれから、お前を同じ目に遭わせるつもりだが」


 翠姫は拳を握りしめ、うつむく。


「構いませんっ……。だって、悪いのは私だから……」

「お前が苦しんだところで、過ぎ去った時間やねじまがったこの心が戻るか?」


「戻るまで、苦しみ抜きます」

「ほざけ」


 吐き捨てると、翠姫はさらにうつむき、縮こまった。


 責めるつもりで言ったのではなかった。


 あんな痛みや苦しみ、存在や尊厳が侵される感触に耐えられるものなんていない。耐えられるとすれば、終着点として死がある定命の者だけだ。


 翠姫がどうなるかなんて考える必要はなかった。私は不死を捨てたいんだ。それに向かって進めば良かった。


 だがいざ動いてみれば、行く手を阻むまきを斬り伏せられず、翠姫の行く末を案じて迷っている。


 私は、こんなに甘かったのか。


 ***


 夕方までに戻ってきた黒羽丸くろばねまるを交え、夕餉を囲んだその翌朝。


 翠姫の鱗が効いたのか、私は立ち上がれるまで回復していた。そして体を慣らすためと言って一人、外へ出た。


 山の岩盤に穿たれた洞窟から出て、入り口のある斜面を登る。


 昨日降ったばかりの無垢な新雪をしばらく踏み荒らしていき、息が上がるぐらいの適当な位置で独りごちるように言った。


「浅岡。出てこい」


 すると背後に気配が湧いた。


「お疲れ様です。先生」


 式神の浅岡は相変わらず涼しい顔をしていた。


「いや、ひやひやしましたよ。あそこまで斬られてしまっては、死なずとももうだめかと」

「浅岡」


「でも、大丈夫そうですね。今日はいよいよ隠れ家に向けて……」

「浅岡。話がある」

「おや、珍しい。何でしょうか?」


 これを言って良いのだろうか。


「何です、先生? もじもじしちゃって」

「愚弄するな」


「はやく言ってくださいよ。楽しみだな、先生のお話」

「翠姫のことだ」


「すい……? ああ人魚ですか。あれがどうかしました?」

「具体的にどうするのだ。喰らうつもりだとは聞いたが」


「喰らうというか、人魚のきもが欲しくて」

きも、だと?」


「人魚の不死の根源は肝なんですよ。だから肉や鱗を摂取するだけで、人魚以外の生物も不老不死になれるんです。僕はそれを研究したくて」


「それだけか?」

「ええ」


「なら頼みがある」

「頼みですか! 先生! 嬉しいな、先生の頼みでしたらなんでも聞きます!」

「翠姫を傷つけないで欲しい」


 すると浅岡の緩んでいた顔が冷然とした。


「無理ですよ。あの魚は僕のものです。好きに切り刻ませてもらいます」

「お前の腕前なら、苦痛を与えず研究に協力してもらうこともできるだろう!」


「手間ですが……ええ、まあ」

「なら……!」


「先生、どうしちゃったんです? まさかあの魚に絆されました?」

「考え方が変わっただけだ」


「幻滅だな。しょせんはただの村娘ってことですか」

「お前の幻想など知ったことではない」


「僕を裏切るんですね、先生。裏切ってどこへ行くんです。京都所司代きょうとしょしだいに駆け込みますか?」


「それもやぶさかではない」

「不死の体で獄門か火あぶりですよ」


「構うかよ」

「売り言葉に買い言葉か。黒羽丸くろばねまるはどうするんですか」

「全ての罪は私が贖う。私が黒羽丸を脅していたことにする。とがはない」


 こちらを睨めつける浅岡の目を、初めて恐ろしいと感じた。

 

 格下だと思っているものに裏切られたときの、怨みのこもった目。今まで私が翠姫に向けてきた目も、こんな醜いものだったのかもしれない。


「出歩くときは背中に気をつけてくださいね。先生」


 浅岡は捨て台詞を残し、式神を燃やして消えた。


 まずはこれでいい。今日は京都所司代と接触しよう。黙って捕まり、助けを求めよう。


 私は踵を返して洞窟へと戻った。

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