第2話

 御年七十過ぎとは聞いていたが、目のまわりの窪みかたや皺の刻まれた様子はそれ以上の老け込みを感じた。


 独り立ちをさせてもらっていた十年前から、すでに手紙のやりとりのみだった。その間に稚児の養育を二人任されたが、それっきり音信を私のほうから断っていた。


 自分の無沙汰を呪った。


顕龍院けんりゅういんさん。寒いですよ」

「すみません。気づかず」


 慌てて部屋の中に入り障子を閉じる。横臥する庵主あんじゅの足元には長火鉢が置いてあった。


 部屋の中に入ってきた冷気はすぐに温まり、寒さに慣れた私でも気が休まる。


「本当に、お久しぶりですね」


 庵主は懐かしそうにいった。これまで顔を見せなかった私の不義理を咎めてこない。


 いっそ、咎めてほしかった。


「無沙汰をしておりまして……」

「それで良かったのですよ。私があなたに手紙を送らなかった理由です」

「は?」


 庵主は天井を仰ぎみて、深く呼吸をした。苦しいというより、長く喋る体力を残せていないように見えた。


「あなた、いまおいくつ?」

「八百と、二十一になります」


 我ながら現実味のない歳だと思う。目の前の師は七十過ぎで、すでに人生を閉じようとしているのに。私は。


「あなたは今まで、何人ぐらいの死を見届けてきたのです?」


 正座する足へ置いた手に、自然と力がはいった。


「もう、数えていません」

「難儀ですよ。そのお返事は」


 庵主は天井を仰ぎみて、短くため息をついた。


「私もお役目がら、多くの死を見てきました。だから『数えきれません』とこたえます」


 目がこちらへ動く。優しい目。


「あなたは最初、数える努力をしたということでしょう?」


 目を合わさず、小さくうなずく。


「なぜやめてしまったの?」

「その……」

「うん?」

「数えるたびに、懐かしい人たちを思い出すから」


 そうこたえると、庵主はそれ以上聞いてこなかった。私は庵主の言葉を待ったが、彼女はうっすらと微笑みながら天井を見続けていた。


「私も、その懐かしい人たちに加えていただけるのかしら」

「やめてください!」


 思い出したかのように呟いた庵主の言葉に、私は取り乱して叫んだ。直後、病身の人の前で見せるべき態度ではないと気づいたが遅かった。


 だが無礼な態度を迂闊に見せても、庵主は穏やかでいた。


「ちょっと、意地悪でしたね」

「あ、あの。決して、その」

「大丈夫ですよ顕龍院さん。そこまで取り乱すほどに、私を想ってくれただなんて」


 庵主は力なく笑い、咳き込んだ。


「ごめんなさい。この頃は笑うと、空咳が」


 呼吸を整えた庵主は続けた。


「あなたは不老不死の者として、死んでいくものたちを見送ることに苦しんでいる。だから私の死であなたを苦しませたくなかったのです」

「それが手紙を送らなかった理由、ですか?」

「ええ。ですが間違っていました」


 庵主は悟ったような微笑みをうかべた。


「あなたが私の死を受け容れられるよう、毎日のように手紙を送るべきだったんです。私の一生涯をかけて、あなたの心の中に、思い出を遺すべきだった」


 思い出だなんて、と言いかけた。だが庵主の子供返りした人懐っこい目が、私を黙らせた。


「あなたの苦しみの本質は、思い残しというものですよ。もっと語らいたいとか、その人を知りたいとか」

「尼僧として、未練がましくありませんか」

「悪いことではありません。素敵じゃありませんか。いつまでも語らっていたい。そんな人だと思ったり、思ってもらえるなんて」


 庵主は床から私を眺めていた。


「私はもとより、あなたを尼寺に留めるつもりはなかったのです。だから外へ出した。私たちのように命を定められた者とは違う経験をしてほしかったから」

「ご期待に添えず……」

「謝るのは私です。あなたが八百年の間に受けた仕打ちと傷を正しくはかれなかった。もっとこの境内で過ごさせてあげるべきでした」


 嫌だ。


 そんな弱音を吐かないでほしい。


 私を力強く救って、導いてくれたあなたのままでいて欲しいのに。


「ふふ、嫌ですね。どうもお迎えが近いと、気が弱くなります」

「そんな」

「ねえ、顕龍院さん」


 布団の裾から、細りきった腕が差し伸べられた。枯れ枝と見まごう腕と、その先にある手を、私は支えるようにしてとる。


「私にはもう時間がありません。ですが、あなたにはまだ時間がある」


 庵主の手は冷え切っていた。私の手を握り返す力もなく、私の手の中にただ『ある』だけだった。だがその双眸は、死の淵にあっても力強く私を見つめてきた。


「時間が、あなたを苦しみや悩みから救ってくれるでしょう。八百年の間に、私のような者と出会えたように、この先もあなたは大切な人々と出会えるのです」

「その都度、今生の別れを味わえと?」

「その別れから、新しい出会いが始まるのですよ」

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