袈裟と鱗と刀の奇譚
日向 しゃむろっく
第一章
第1話
田沼意次が失脚し、松平の世となってから二年が過ぎた。その師走。
私は尼寺の山門へと続く、石造りの階段をのぼっていた。
石段の上に門の天辺が見えてくると、私は後悔しはじめていた。訪れれば、この漠然とした不安がさらに強まるから。
それにしても今さら思い知らされたが、こんな山の上に寺を建てるなんて。私は
息を弾ませて石段を登り切り、よく手入れをされている門を仰ぎ見る。三十年前に初めてくぐったときと変わらない姿を留めていた。
私は懐かしさもほどほどに玄関へ向かい、閉じられた戸を前にすると呼吸を整える。
「御免」
挨拶への返事はなかった。だが、そのうち来るだろう。
しかし寒い。黒い法衣だけではなく頭巾も被っているが、もとより比丘尼の着る衣だから防寒の程度はお察しだ。
「……どちらさまですか?」
戸の向こうから壮年の女声が聞こえた。
「昨週手紙を頂戴いたしました、
法名を名乗ったとたん、戸が勢いよく引かれて尼僧が顔を出した。皺の刻み込まれた顔は驚きに満ちていた。
「顕龍院さん! まあ、まあまあ……!!」
「お久しぶりです。無沙汰をお許しください」
「とんでもない……! さあこちらへ。お外は寒いでしょうから」
「はい」
促されるまま、私は玄関へと足を踏み入れた。
「生憎、足湯を用意していなくて」
「いえ。水で構いません」
玄関に腰掛け、たらいの水で足を拭く。揉んでいると足のこわばりも癒え、温まってきた。
「顕龍院さんが来られたなんて、
「それなんですが」
足を拭いて乾かし、玄関にあがった。
「庵主さまは、その」
壮年の尼僧は目を伏せ、一息置いてこちらの言葉を引き継いだ。
「お医者さまの見立てでは、長くはないと」
「それほどまでに悪いのですか」
「はい」
彼女は私を奥へと誘って歩きだした。
「顕龍院さんの庵へすぐにでも報せを送りたかったのですが、庵主さまに止められていて」
「なぜ」
「それは直接お聞きになったほうが良いと思います」
雪見障子ですらない粗末な障子が並ぶ廊下を進む。
南向きの、一番日の当たりそうな角部屋まではお互いに無言だった。そして部屋の前まできて立ち止まる。その部屋の障子はほかと違い、真新しい太鼓障子だった。
「庵主さま。珍しいお客様ですよ」
部屋からは返事が聞こえない。ただ、布団の中で身じろぎをする気配だけが障子の向こうから漏れてくる。
案内をしてくれた彼女は寂しげな微笑みを私に向け、来た廊下を戻っていった。
そしてひとり残された私は、なかなか部屋へ入れないでいた。
入れば、私が感じているこの不安が確かなものになってしまうから。
「顕龍院さん」
懐かしい声が部屋の中から聞こえてきた。だが昔日の生気は影もない。
覚悟が向こうからやってくる。
「廊下は寒いでしょう。入りなさいな」
手が震える。この薄い障子一枚を開けるだけで、また私は大切な人を失ってしまう。手紙なんて無視して、庵に籠もっていれば良かった。
だが迷いながらもここへ来たのだ。会わなければ。
「失礼します」
床に座り、戸を開ける。すると目の前に、床に伏した師の顔があった。
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