第3話

 睦月。


 白い岩と砂が積み重なって生じた海岸に、冬の海水が打ち付けた。


 砕けた波は白い泡となって波間に消え、打ち付けるたびに海岸を連れ去っているかのような錯覚をあたえてくる。


 海風は荒々しく、私の長い白髪はくはつを乱し、身に纏う黒一色の法衣の下の肌を切り裂いていく。


 懐から手紙を取りだして読み返す。


 年明け早々に届いたその文には、庵主が遷化亡くなったしたことが綴られていた。


 わかりきっていたことだった。庵主も、この冬を乗り切れないことは覚悟していただろう。


 懐で私の体温を移され温まっていた手紙は、海風にあてられてみるみるうちに冷える。海の飛沫がとび、文を滲ませていく。


 手紙の最後には庵主の今際の際の言葉が書かれていた。


『あなたを悩ます不死が、いつか救いになることを願っています』


 私は手紙を折り、細かくちぎった。ちぎれた端から風に乗せ、舞うのに任せた。

 ありえない。


 八百年という年月のなかで、長く生きていて良かったなどと思ったことは一度もなかった。


 今度もそうだ。


 踵を返して海に背を向け、急斜面に設けた粗末な階段を上がっていく。


 この道は私しか知らない。知りようがない。


 このあたりの海岸は断崖絶壁が続き、波も一年中荒い。そして海岸沿いには列柱のような岩が突き出ている。


 かつては行者やら死にたがりがポツポツと訪れていた場所だった。


 今はこの一帯に人払いの結界を張っている。なんびとも近寄らせないよう、私がそうした。


 冷たい空気を吸い込みながら斜面を登りきると、すぐ目の前に木造の庵が現れる。周囲の住民の信仰や喜捨など、願いを込められて作られた物ではない。


 私が世を憚って隠れるためだけに作られた庵である。


顕龍院けんりゅういん、さま」


 寒さに当てられて呆けたように庵を眺めているところを、庵の影から顔を出した稚児に声を掛けられた。


「私のことはシンでいいと言っているだろう。黒羽丸くろばねまる


 真っ黒な長髪を結った稚児の名前は黒羽丸という。一年ほど前に、結界の外で行き倒れていたところを拾ったみなしごだ。


シンさま。朝食、ご用意、できて、います」

「わかった」


 口数が少ない黒羽丸は、以前雇った二人の稚児たちとは違う。


 私と意思疎通をとる以外は自分の心に閉じこもっているようにも見える。だから必要最低限のことしか喋らない。


 庵に入ると火鉢のおかげで寒さが和らぐ。火鉢の横には食膳が置かれていて、その上で粥が湯気を立てていた。


 床に座り込むと床板の冷たさが骨を刺してくる。


 献立は小豆がいくつか混ざる粥と、焼き塩、大根菜の塩漬けのみ。それが僧の朝餉。


 それだけではほとんど味のしない粥を啜る。よく噛めば米の豊かな甘味を感じるのだろう。


 だが私は不死者となってからというものの、そのような日常の微かな喜びや、心地よさを追いかけたり積み重ねるつもりになれなくなった。


 どれほど小さな『楽』を丁寧に探して積み重ねようと、その後に襲いかかる『苦』によって全て忘れ去ってしまう。


 忘れるならまだしも、丁寧に育て上げていた幸せをふとした拍子に思い出してどうしようもなくなる。


 私にもかつて小さな幸せがあった。


 私を産んだ喜びの中で死んだ母。男手一つで私を育てた父。気の良い漁村の隣人たち。共に老いて共にこの世を去ることを誓い合った相手。


 たくさんあった。だがそれらを思い出せば、その幸せが反転したときの感情も共に思い出してしまう。だからもう積み上げないと決めた。


「顕龍院さま。いつも、残さず、食べる。だから、大好き、です」


 私が無心で朝餉を平らげたのを見て黒羽丸が微笑んだ。


 元服手前の男子というのは女子にも見えてしまう妖しい艶やかさがある。私がそのような変態趣味に惑うほど高貴な血筋ではなかったのが幸いだ。


 空になった食膳を黒羽丸が片付けていく。


「お茶。お持ち、します」

「ありがとう」


 黒羽丸が膳を下げて茶を持ってきてくれるまで、目をつむって内観する。


 この身は八百年前、人魚の鱗を煎じて飲まされた。


 それからというもの、私は老いず死なず、およそ人が正気で居られる限界の年月を通り過ぎて生きる不死者となった。


 喰わずに居ても死なない。だが飢餓の苦しみは憎たらしいほどしっかりと実感する不便な体。それも最近になってやっと折り合いを付けられるようになったと思う。


 その折り合いも不安定なものだ。徳川の治世が続いているとはいえ、定命の者が形作るものはいつ失われてもおかしくはない。


 世の日陰に潜む以上、世が移りかわることで住処を失う事だってある。


 日陰はいつかは日向に転じる。そうなれば私は新しい日陰を探して再び惑うほかないのだ。


 冷たい床板に体温が移りはじめた。

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