第4話

 内観はこれまで。静かに目を開け、鏡台へと体を移す。


 引き出しから櫛を出し、鏡に映る自分の髪に通していく。


 黒い法衣に目立つ長い白髪はくはつ。尼僧を名乗るくせに剃髪も済ませていない。


 ただの村娘だった昔、村の皆がこの髪を褒めてくれた。過ごしてきた時代に合わせ、どれだけこの身が堕ちようとも、手入れを欠かさずにきた。


 今の時代は良い。このツゲ櫛というものは椿油に浸してあって、髪の汚れを梳き取りながら磨き上げてくれる。


「おくつろぎのところ、失礼しますよ」


 慇懃な若い男の声が背後からかけられる。


 鏡に反射するその男の姿を見て、私は眉を微かにひそめた。顔こそ鏡の外へ見切れていたが、何度も聞いた懐かしさと煩わしさが混在する声は忘れようもない。


「人の基本的な礼節すら忘れたか。浅岡」


 声の主はひたひたと私の正面へと回り込んでくる。


 黒地に金糸を刺繍した狩衣かりぎぬに身を包み、黒い漆塗りの扇を弄ぶその男は、私の顔を品定めするようにニヤついていた。


 男の白く薄い肌は健康には見えない。だが異様にきめ細かく、違う雰囲気を纏えば美丈夫で通るだろう。


「お久しぶりです。先生」

「私を先生と呼ぶな。確かに最初の稚児として色々と教えはしたが、呪術を修めろとは教えていない」

「ずいぶんと嫌われたものですね。でも先生のそういうお堅いところ、僕は大好きですよ」


 私は浅岡の好意を鼻で笑う。


「陳腐な好意をひけらかすな。呪術の深淵に魅せられたような者に気を許すほど、もう私は無垢ではない」

「僕の修めた素晴らしき術を悪く言わないでくださいよ。もしかして先生の結界を破って入ってきたから怒ってるんですか? それは僕が日々の研鑽を怠っていないという証左ですよ。褒めて欲しいな」


 庵の入り口からけたたましい音がした。


 振り返ると黒羽丸くろばねまるが茶の入った湯呑みを落とし、浅岡に対して鬼のような剣幕を向けている。


「お前! 顕龍院けんりゅういん、さまに、近づくな!」


 黒羽丸は浅岡と何度か会っている。馬が合わないのか、以前から毛嫌いしている。


「黒羽丸か。よく、先生をお守りしているようだね?」

「浅岡、黒羽丸に関わるな。黒羽丸、私は大丈夫だから下がりなさい」


 黒羽丸は割れた湯呑みを片付ける。そして浅岡を睨み付けながら庵の外へと出て行った。


「昔の僕を思い出しますよ。素直で、無垢だ」

「身寄りが無く、私しか頼るものが無いからだ。いずれ世界を知れば離れていく」


「そうですね。僕も稚児時代、先生が不老不死だと知ったときは衝撃でしたよ。思えばあの時に、僕は自分の修めるべき道を見いだしました」

「まだ不死なんてものを求めているのか。人の世を永遠に歩く辛さと孤独は教えたはずだ」


「先生は悲観的過ぎるんですよ。まあ、先生は不死人生の始まりが良くなかったですね。覚悟もなかった。でもその悲嘆の沼から抜け出そうともしない。自己憐憫の塊じゃないですか」


「仮にも私を師と慕うのなら言葉に気をつけろ。たとえ見え透いた挑発でもな」

「これは失礼いたしました。だけど僕は知ってるんですよ」


「何を」

「以前から僕は、不死がお嫌でしたら元の体に戻してさしあげますって言ってますよね。僕を邪魔に思ってるけど遠ざけないのは、期待しているからでは?」


「お前の空論に期待するほど暇ではない。これから畑の作業がある。さっさと帰れ」

「つれませんね、先生。これはもっと先生に好きになってもらえるように努力しないと」


 浅岡は残念そうな顔をした。そして会話を打ち切ろうとしている。


 珍しいこともある。


「ところで先生。実はお伺いした本題がまだでして」

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