第七章

第28話

 蝎獅かつしはその図体から想像が付かないほど素早かった。飛びかかってくるまでの予備動作が見えず、以前なら反応できなかっただろう。


 だが腰に差した刀が、攻撃がくる寸前に合図を送ってくる。それも右や左、前後へと明確に方向をさしてくれる。


『動きが違いますね? 先生。何かあったんです?』

「心境の変化だ」

『ずいぶん青臭いこと言うじゃないですか』


 目の前で蝎獅かつしの前足が振り回される。足の掌には鉄球のように黒い肉球がついていた。これだけの膂力で振り回される肉球なぞ、砂袋を叩きつけられるのに等しい。人の骨なんて軽く砕けるだろう。


『逃げる婦女を追い詰めるのも、なかなか風情がありますねえ!』


 指摘はもっともだ。いつまでも避けていられるほど余裕はない。


 前足を左右に大きく広げて飛びかかる蝎獅を見据える。横へ避けるのを阻もうとする狙いが分かるが、体の下はがら空きだった。私が逃げるのに精一杯だと思っているのだろう。


 体をかがめ、振り下ろされる前足をすり抜ける。腹の下を抜けると目の前に後ろ足が迫っていた。刀を抜き、すり抜け際に右後ろ足を斬りつける。


 傷だけでもと思っていたのだが、刃は蝎獅の足をすり抜けるように断ち斬った。

 頭の上で絶叫が轟き、避けた私へ追撃をすることもなく通り過ぎていく。そして距離を取りつつ、こちらを睨み付けて恨めしそうに唸った。


 こんなに斬れる刀だったか?


『やってくれますね、先生。このの脚を斬り落とすなんて』

「悪かったな。自慢の玩具だったのに」

『構いませんよ。次は先生の番です』


 地面を軽やかに弾む音がしたかと思うと、蝎獅はあっという間に飛び込んで来ている。爪の薙ぎ払いを刃で受け止めるものの、この速度と攻撃が続くのはまずい。


『先生。大丈夫です。殺しはしませんよ』


 浅岡も私の弱点をわかりきっている。こちらの気が休まらない程度に脅し、疲れさせるつもりだ。つまり手を抜かざるを得ないのがやつの隙でもある。どこまでそこにつけ込めるか。


『先生。なんで抵抗するんです』


 戦っているのは蝎獅である。遠くから眺めているだけの浅岡は普通に話しかけてくるが、こっちは気を抜けば手足の二、三本は持っていかれる。返答などしていられない。


『ねえ先生。答えてください』

「抵抗しなければ終わりだからだ! お前の妻だなんて!」

『そんなに嫌ですか? 僕と……夫婦になるのが』


 言葉のやり取りをしながら気を吐き、目の前に迫る死を刃でいなす。集中がところどころ途切れる。


 顔前を爪が横切り、逃げ遅れた前髪の一本が泣き別れにされる。


「浅岡。悪いが、私はお前を稚児としか見られない」

『えっ』


 爪の一撃を弾いて距離をとる。追撃が来るかと思ったが、蝎獅の動きが止まっていた。


「どれだけ見た目の歳が追いついても、お前は私の教え子なんだ」

『僕を、好きじゃないんですか』


「好き、だった。お前の物覚えの良さや頭の回転の速さが、な」

『僕を男としては……』


「悪いが今のお前では愛せない。私利私欲のために、私のみならず翠姫すいひめや、世間にまで危害を加えるような男は」


『う、嘘でしょ? 先生? あのつれない態度は? 恥ずかしがってるとかでは』

「違う」

『じゃあなんでです!』


 どうしたものか。だが、ここでハッキリ言っておかなければ。


「お前の突っかかりが、疎ましかったからだ」

『………』


 呪人形からくりである蝎獅の向こうに、浅岡の動揺を感じる。息せぬ蝎獅が浅く早い吐息を吐く気配がする。


「浅岡。どんなかたちや想いであっても、私を好いてくれたのは嬉しい」

『………』


「今だって、お前は私にとってかわいい生徒だ。こんな争いなどしたくはない」

『僕は先生のために呪術を修め、この手をよごし、体まで壊したのに』


「気づいてやれなかったのは私の落ち度だ。だからお前には逃げおおせて欲しい」

『は?』


「一切の責は私が負う。京都所司代に突き出されるのは私だけで良い」

『嫌ですよ。僕は先生と一緒になるんです。不死を取り除けるのは嘘じゃありませんよ。僅かな肝さえあれば良いんです。先生の望みをかなえます』


「翠姫も解放するか?」

『それはダメです。あの魚の不死性を研究しないと』


「しないと、なんだ」

『夫婦になったら、不死者であってもやることは一つでしょう。不死者の一族、不死者の国を作るんですよ!』


「私は子を成せない」

『知ってますよ。子を成せる周期の間隔が常人に比べて長すぎるんです。それを立証するためにも、あの魚が要るんです!』


 蝎獅の体が震える。


『僕は先生が好きです。先生の憂いた目や、水面に浮く薄氷のような貌、冷たいけど突き放さない声が、全部……』


「浅岡。それがお前の本心なら、私だってそれを受け止める。だがお前からは肉欲や、倫理を無視したものしか見えてこないんだ」


『ちがう……僕は……』

「幸い、私は死ねない。お前が変わるまでいつまでも待とう」


『じゃ、じゃあ!』

「だからまずは翠姫を解放しろ」

『それじゃあ何にもならないだろうがよぉ!!』


 蝎獅が咆哮する。そして口中に夕焼けのような明かりが見えたと思った刹那、得体の知れない殺気を吹き付けられた。

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